映画やドラマ、小説やゲームに触れ、その作品を「面白い」と感じたとき、わたしはしばしば「(作品名) 感想」「(作品名) 考察」などで検索して個人のブログを探して読む。
しかしそうやって出てきたブログの中には、長々と作品のあらすじを述べた末、感想と呼べるものは「面白かったです」の一言のみというものが少なくない。
作品のあらすじをまとめることにもそれなりに意義と需要があるということはわかっている。
だがわたしが読みたいのはそれではないのだ。
何度「違う、そうじゃない」とブラウザバックしたことか数えきれない。
もちろん自分にはない視点から興味深い感想をつづってくれているブログも多い(そうでなければこんな行為は続けない)のだが。
わたしのような人間が世の中にどれくらいいるのかはまったくわからない。
おそらく少数派であろう。
そもそもわざわざ他人の感想を読みたがる人間など多いとは思えない。
ではわたしはなぜわざわざこんなことをしているのか。
自分の考えを整理したいからである。
作品によってわたしの中の何かが喚起された場合、それはふわふわと舞い上がり、やがて時間がたつともとのように沈静化する。
わたしには、そのふわふわと舞い上がったものを掴み取りたいという欲求がある。
今わたしの中で舞い上がっているものは何なのか? なぜそれが舞い上がったのか? わたしが知りたいのはこれだ。
他人の感想を読む行為はある種の「対話」であり、その中で自分の中にあるふわふわとしたものが何なのかおぼろげながら浮かび上がることがある。
わたしはこの行為がとても好きだ。
人生が有限である以上、わたしを喜ばせられるものと出会える回数もまた有限である。
「なぜわたしは今喜んでいるのか?」、「なぜこの作品は(わたしにとって)面白いのか?」を考えることは、今後のわたしが喜ぶものと(ある種効率よく)出会える可能性を高めてくれるように思う。
そういうわけで感想ブログなどを読みあさる日々であったのだが、あるときふと「自分でも感想を書き残したらよくないか?」と思った。
せっかく喚起されたものを掴み取ることができても、その多くはいずれ沈殿してしまう。それはもったいない。だがどこかに書きとめておけば、読みなおすたびに刺激が喚起されるかもしれない。
また文章を書くことは自分との対話であり、自分の考えを整理するのにも役立つかもしれない。
ひょっとするとこのブログがわたしのような物好きの目に触れて、その人の考えを整理するのに役立つことがないとも限らない。万一そんなことがあればとても嬉しい。
ブログを開設するに至った理由はそんなところである。
以上のような理由から、このブログは第一にわたしのために存在している。
また「なぜ面白いのか」というタイトルからもわかるように、基本的に面白いと思えた(≒作品という刺激がわたしの中の何かを喚起した)作品しか取り扱わない。
そしてここに最も注力したいのだが、このブログでは極力客観性を排し、わたし個人の主観的な感想のみを書きたい。
さらに努力目標として、できるだけ抽象的に書くことを心がけたい。
はたしてこんな目標がどこまで達成できるのか不明だが、またこんなブログに需要があるのか不明だが、少なくともわたし自身という需要がある限りは書く努力をしてみたいと思う。