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最原終一と神殺しの物語「ニューダンガンロンパV3」キャラ語り03

V3のサントラが出るようだ。今回は旧作のアレンジBGMも、いつもとはまた違う印象になっていて、そうかこれがサイコクールというやつか…と勝手に納得したりしている。ジャズっぽいアレンジが好きだ。

さて本日のキャラ語りは最原くん。最初はちょっと頼りない「超高校級の探偵」だった彼が、「主人公」赤松さんとかかわることでどんなふうに成長していくのかを見ることも、この作品の見どころだった。

以下はもちろんネタバレなのでクリア後にどうぞ。過去作、ダンガンロンパ霧切のネタバレもあり。

 

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超高校級の探偵

我々にとって「超高校級の探偵」とは長年の間、霧切響子さんのことだった。彼女は強くてストイックで、でも苗木くんを厳しくも優しく導いてくれるキャラクターだった。ファンの中での人気も高いものと思われる。

その彼女とは逆のベクトルを向いた「超高校級の探偵」が最原終一くんである。「超高校級の探偵」が最初から正体を現した状態で登場することが、最初は頼もしかった(キャラのビジュアル、性格設定などについてもできるだけ情報を見ない状態で購入したので)。ところが彼はあまり積極的に真実を暴こうとしない。それもそのはず、最原くんのたどり着いた真実とは、ほんのり好意を抱いた相手の命を奪うものだったのだから。

もともとトラウマがあるとかで「真実を暴くこと」に疑問を抱いていた最原くん、1章の展開でトラウマの上塗りである。普通ならここで再起不能になってもおかしくない。しかし彼には赤松さんの残した遺志と、百田くんという理解者がついていた。それによって彼はずっとかぶっていた帽子をとり、みんなの助けを借りながら真実に立ち向かう探偵として成長していくことになる。

……というキャラづけのおかげで何が起こったかというと、今回の学級裁判は全体として「みんなで議論する」感じがよく出ていた。最原くんはたびたび「みんなの力を貸して」という趣旨の発言をする。この姿勢は、苗木くんや日向くん、あるいは霧切さんにはなかったものだ。おかげで今回は旧作以上にノンストップ議論が盛り上がったし、議論スクラムという新システムもうまく話に組み込まれていた。システムが要求するシナリオをキャラクターが完成させるという理想的な形である。

ところで「ダンガンロンパ霧切」を前提とすると、1・2の世界には「探偵図書館」なる施設があり、すべての探偵はそこに登録され、ランク付けされているらしい。もしも3世界にもそれに類するものがあるとすると、最原くんはどれくらいのランクにいることになるだろうか?(解決した事件が一件だけならあまり上位ではないかも)

 

中学生の霧切さんかわいいです

 

成長した結果泥沼に

しかし主人公が探偵として多少成長したからといって、事態が解決するとは限らないのが「ダンガンロンパ」のいいところ。だってこれは悪意の物語だから。

最原くんの成長は、結果として悲しい真実を次々と暴く結果につながった。赤松さんも東条さんも、真宮寺くん…はまあいいか、ゴン太くんも、最原くんにとっては「知りたくなかったクロ」だった。「真実を暴かなければ自分たちも殺されてしまう」という大義名分はあれども、それが罪悪感を100%消してしまえるはずがない。特に最原くんみたいな「少年」には。

探偵としての成長は、事態の根本的な解決を導かない。4章までの展開は、最原くんとプレイヤーに繰り返しそのことを強調するものだった(セリフでも表現されていたように思う)。

では根本的に解決するためには何をどうすればいいのか? 今回V3で提示されたのは、成長譚としての「親殺し」のパターンの一つであるように思う。

 

成長譚としての「親殺し」

「親殺し」のモチーフは、『オイディプス王』以来さまざまなフィクション作品で使われる。定番の展開といってもいい。

「親殺し」といっても本当に殺すとは限らない。「少年」が親(特に父親)を精神的に乗り越えて「大人」になる過程を、比喩的に「親殺し」と表現することもある。

有名かつそのまんまな作品の代表作が「スターウォーズ」だ。あれはルークという「少年」がダースベイダーという「親」を乗り越えて「大人」になっていく物語だ。最近見たそのまんまなキャラといえばティ○オ○である。

ドラクエ3ドラクエ5もあれの亜種だし、1における霧切さん(まだ完結していないが「ダンガンロンパ霧切」シリーズもひょっとしたら)もこのテーマを内包している。

 

で、最原くんである。

探偵としての成長が根本的な解決を導かないことをこれでもかと見せつけられて、どうなったかというと、探偵としてではなく人間として成長するしかなかった。

この物語において「少年」が「大人」になるとはどういうことか。「親」とは、「親殺し」とは、何を意味するのか。

話がどこに向かっているかわかっただろうか。6章である。

フィクションキャラクターにとって究極的な意味での「親」とは製作者である。特にV3のあの「設定」の場合、本当の意味で「チームダンガンロンパ」こそが「親」だった。最原くんはその「親」を「殺す」ことによって乗り越え、フィクションの一登場人物でしかない「少年」から、フィクションの向こうを志向する「大人」へと成長することで、物語を完結へと導いたのである。

さらに言えば、「チームダンガンロンパ」はあの世界にとって創造主以外の何ものでもない。「チームダンガンロンパ」だけではない。「視聴者(あるいはプレイヤー)」もまた、あの世界の創造を望んだ者、創世神話の登場人物の一部なのである。V3は「親殺し」であると同時に「神殺し」の物語でもある

「神殺し」の物語は、「神」の視点から見たら愉快なわけがない(なかなかできない体験だし、わたしは愉快だったが)。反発するプレイヤーの反応は(ここまで自覚してはいないと思うが)、これも一因であろう。

 

V3の物語構造はさまざまに解釈が可能だが、こんなのもアリではないかな、という試みでした。

 

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