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ミステリィとして読む「昭和元禄落語心中」感想

「人を笑わせるのは泣かせるよりも難しい」という価値観が、わたしの中に歴然と存在する。それはわたしが音楽という「芸」をやっているときに言われた言葉で、なるほど確かにそのとおりだと感じて、今でも覚えているわけだ。

たとえばシェイクスピアの悲劇であれば、小学生にだって「これは悲しいお話だ」と理解できる。一方シェイクスピアの喜劇は、当時の価値観や慣習、時事ネタの類をそこそこ知っていなければわかりにくい笑いどころもある。

基本的に悲劇とは何らかの「喪失」を描くもので、この「喪失」を悲しむという感情は、ある程度人類共通のものと言えるだろう。だから泣かせることは簡単なのだ(「泣かせる話」というのは大抵「喪失」か「悲願成就」、あるいはその組み合わせに分類できるように思う)。

一方「笑い」は難しい。まず共通の価値観を持つ者同士でなければ笑いは共有しにくい。知識や教養を要求する笑いもあるし、他人を不愉快にする笑いだってある。笑いとは何かという話題については、土屋賢二先生の初期エッセイ集でいろいろと語られていたのが印象深い。

 

これこれ。

まあこのような前口上はさておいて。本日語るのは「泣き」と「笑い」の両方を扱う落語のお話。

先日アマゾンプライムで「昭和元禄落語心中」なるアニメを見た。このアニメが発表された当時、結構話題になったのを覚えている。何しろ石田彰山寺宏一のお二人がオーディションで勝ち取った役だというのだから。声優には疎いわたしでも、このお二人の名前は知っている。お二人が挑戦する落語なら、ぜひ聞いてみたいと思った。

で、見てみたところ、実に耳が幸せなアニメだった。ストーリーも気に入ったので原作(10巻で完結している)も購入したところ、後半のストーリーで号泣し、結末にはかなりうならされた(現在、アニメはまだ放送中で、完結までいってない)。これはぜひ感想とわたしなりの考察を書き残しておかねば、ということでこうして書き始めたというわけだ。

以下はネタバレ感想になるため、これから原作を読もうという方、アニメだけを追っている方は閲覧非推奨。この話はきちんと順を追って、ネタバレなしに結末を見た方がいい。

 

 

ミステリィ(あるいはサスペンス)として読む「落語心中」

先に断っておくが、わたしは落語には疎い。この漫画で初めて知った部分も多い。今度東京に行ったら寄席に行ってみたいと思うくらいには興味を持てたが、わたしにとってこの話の魅力の中心は落語ではなく「」にあった。

第1話の時点で、過去の二人の人間の死が示唆される。その死は現在の八雲師匠の落語や人間性に大きく影響を与えていることが察せられる。いったい二人はなぜ死んだのか。八雲はその死にどうかかわっていたのか。これがストーリーの前半を引っ張る謎である。

物語前半では、最後に死で終わることがわかっている悲劇が語られる。それは確かに悲劇と呼ぶべきもので、なるほど今の八雲師匠の芸はこうして出来上がったのかと納得できるものでもあった。

 

この謎に一応のオチがついたところで、次の謎が提示される。信之助の父親は誰なのかという問題である。登場人物外の男にひっかけられた可能性もなくはなかった。親分さんが父親か? とも思ったが、いまいちすっきりしないエピソードだったので、これはもう一ひねりあるだろうとは思っていた。そうしたら最終話でうっわそういうオチか!! と。

いやはや、不意を突かれた。しかし確かに父親は八雲以外に考えられない。ここで登場人物外の謎の男が父親だったなんてオチだったりしたらアンフェアもいいところだ。そしてその真相をふまえて1巻から読みなおすと、あのシーンもあのシーンも意味ががらっと変わって見える。

確かに添い寝だとか煙草の回しのみだとか、親子にしては親密すぎると思った。八雲はもともと女性関係には破滅的なところがあったし、親密になった相手をすっぱり切れる、(少なくとも表面上は)切り替えの早い人だ。小夏と一度や二度そういう関係になったとしても外には出さず、知らぬ顔で一緒に暮らせるのもわかる。

小夏は小夏で、自分の好意を外に知られないように、この関係をずるずる引きずらないように、八雲に「引きずる気はないから安心しろ」とでも言うように、「殺してやる」と連呼していたわけか。自分と八雲の両方に言い聞かせていたわけだ。八雲の方の心情はよくわかるのだが、小夏側の感情については、もうちょっと描写があってもよかったようにも思う。

 

さてアンフェアといえば、助六とみよ吉の死の真相については、うん、あっちはミステリィならアンフェアだろー!! と思わなくもない。まあこの話をミステリィとして読む人はあまりいないだろうから、そんな論争は起こっていないと思うが。

とはいえヒントはちゃんと提示されていて、ほかでもない助六自身が、菊比古(当時)のことを「肝心なところで嘘をつく」と評している。本当に肝心なところで嘘をつかれたとは思わなかったけどな! まさかこの話で「信頼できない語り手」をやるのか……と思ったが、しかしこの「語り手」は噺家さんなわけで、そりゃどんな作り話だって見てきたように語れるよなあとも思うのであった。やっぱフェアか?

そしてこの1つ目の謎のトリックそのものが、2つ目の謎の真相を読み解く鍵にもなっている(ここが巧い…)。八雲が「信頼できない語り手」になったのは、小夏を守るため。そして小夏が八雲と関係を持った決定的な理由は、記憶を取り戻したためだったりするのかもしれない。彼女が八雲に「殺してやる」と言っていたのは、「記憶は戻ってないから安心しろ」という意味もあったのではないだろうか。

 

もうひとつメタなサスペンス的状況を作っているのはタイトルだ。

「落語心中」というタイトルと登場人物を見れば、「八雲は落語と心中したがっているが、そんなことはできない、あるいはさせない状況になる」ことはすぐにわかる。つまりタイトルそのものが矛盾をはらみ続けることになる。

これはとても面白い状況だ。過去の悲劇を読み終えた読者は一つの「心中」を見送り、今を生きる八雲が落語と心中しないであろう結末を想像する。心中するの? しないの? 八雲の死は作中で描かれるの? 描かれないの? このあたりのハラハラ感も、後半を引っ張るポイントだった。このタイトル、作家さんにとっては会心の作だったのではないだろうか。

 

超人与太郎

さてこの話、前半は主人公の影が薄いにもほどがあるのだが(巻末でヨタちゃん本人がネタにしていたし)、後半になってみると彼の超人ぷりが明らかになった。

父親について言おうとしないアネさんと思いつきで結婚するわ、信ちゃんはきっちり自分の子として育てるわ、助六とみよ吉の死の真相を知ったあとも、小夏にする話といえば奇術のハッピー先生のこと。懐が深すぎる。

与太郎の特性の一つは「我がないこと」である。我がないからアネさんのことも信ちゃんのことも受け入れられるし、八雲とも助六とも違う落語を目指すことができた。

普通、芸をするにあたっては技とともに自我を磨く必要がある。自分の中に「表現したいこと」が何もなければ、どんな技があったところで外に出せるものがないからだ。助六は「八雲を目指す」と決めて有楽亭の門をくぐったときから、ある程度自我が固まっていたようだった。菊比古も、自我の目覚めによって芸の展望が開けた。普通はそうなのだ。

もしわたしが何らかの芸事を指導する立場で、弟子が与太郎みたいに「自分なんてどうだっていい」「高めたって屁にもならねえ」などと言い出したら、八雲と同様「考えられない」と呆れるだろう。中身がからっぽだから何でも入れられる、何にでもなれるなんて、常人にはほとんど不可能だ。もう漫画であるがゆえのファンタジー能力としか言いようがない。こんな超人設定を持つヨタちゃん、主役補正でもなければ受け入れられないではないか。

そんな芸を極めた与太郎の「居残り」を見せられた八雲が「不愉快」と言うのもよくわかる。あんな特殊能力を認めてしまったら、「有楽亭八雲」の名前が背負ってきたものすら壊されかねない。しかし八雲の本音はといえば、助六の扇子を与太郎に託した、その行為の方だろう。自分の、というか「有楽亭」のあとを任せるに値する出来だったよ、という意味だ。あれで「思い残すこと」の一つが失われて、死神の手を取りかけてしまったんだな……。

 

ヨタちゃんが「何にでもなれる」ことを可能にしているもう一つの能力は、「共感能力」なのかもしれない。「落語は共感を得るための芸」「共感は時代では変わらない」と、与太郎は(八雲師匠の受け売りではあるが)実感を持って話していた。彼は落語の登場人物すべてに共感し、聴き手に共感させるための器となる能力を持っているのではないだろうか。うーん、ファンタジー。

その共感能力に目覚めたのが、親分さんのところで啖呵をきったシーンだと思われる。あのシーン、初見では単なる信之助の父親に関するミスリードかと思ったのだが、あれは与太郎の落語家としての成長エピソードとして見た方がしっくりくる。その次の話で、大人気になったヨタちゃんについて、ファンが「ある時ガラッと変わった」と話していた。その「ある時」というのが親分さんに啖呵をきったときだったのだろう。

棟梁が啖呵をきった理由に共感したヨタちゃんは、それをきっかけに共感能力の使い方を知った。以降、登場人物に共感し、その登場人物の入れ物になるという独自の芸風を確立していったというわけだ。

そしてそれだけの共感能力を持つ与太郎なら、信之助の本当の父親についてもどこかで気づいていた可能性もある(だって大きくなった信之助、八雲師匠の若い頃にそっくりだし……菊比古を襲名させてるし……)。「隠し事のねえ人間なんて色気がねえ」と言い切ったヨタちゃんなのだから、自分が気づいたことも秘密にして「色気」にして、芸のこやしにしていたのかもしれない。いやあ、ヨタちゃんマジ大物。超人。

 

長くなったのでこの話はいったんおしまい。次回、ファウスト型物語として読む「落語心中」、乞うご期待!

 

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