遅ればせながら、映画「ブラックパンサー」を見てきた。
さまざまなテーマを織り込みながら、話のベースは古典そのものなのでさすがにうまくまとめるなあという感じ。
ここではストーリーラインへの感想というよりは、個人的に気になった「死と再生」のモティーフについてメモ書き程度に残しておきたい。
エンドロール後まで含む映画本編のネタバレにつき注意されたし。
死と再生の儀式
本作には「死と再生」のモティーフが繰り返し使われている。
王位チャレンジのシーンでは、ティ・チャラはブラックパンサーの力を殺さなければならない。スーツの力を使わず、生身の人間として挑戦者を受け入れることになっているらしい。
あの場で「ブラックパンサー」は一度死に、新しい王の体をもって復活するというシステムだ。
しかもチャレンジ会場は水辺。世界中の大抵の文化において、彼岸と此岸の境界とされる場所である。
王位継承者が決まったら、今度は新王がふしぎなハーブを飲んで埋められる。これはさらに露骨な「死」、そして「埋葬」の象徴。
ティ・チャラもキルモンガーも、そこで死者との再会を果たす。新王はあの儀式で一度「死」を体験しなくてはならないようだ。
生を超越した存在にこそ諸部族を束ねる力があるということだろうか。
過去にはあのハーブを飲んで埋められたあと蘇生しない事故もあったのだろうと勝手に想像している。だからこそ肉体的に強い=挑戦者を倒すことのできる王が求められる、とか。
蘇生した新王は死者の言葉を語り、現世に伝える。ある種のシャーマンとしての役割も求められていそうだ。
エージェント・ロスが重傷を負い、ヴィブラニウムの力で助けられるのも「死と再生」のモティーフの一つだろう。
王位継承の儀が「死と再生」の呪術的側面だとすれば、エージェント・ロスのくだりはワカンダにおける「死と再生」の科学的側面だといえる。それがワカンダ開国への直接のきっかけを作るのである。
滝から落ちたティ・チャラの蘇生は「死と再生」のやりなおしである。
スーツも権力も失ったティ・チャラが、スーツを取り戻し真の王として目覚めるための儀式であり、成長のための自己否定と自己改革の比喩的表現でもある。
ワカンダの呪術的側面と科学的側面がここで合一を見る。
最後に待つのがウィンターソルジャーの死とバッキーの再生。
この流れを踏まえると、ある意味でバッキーの登場は当然なのかもしれない。
エージェント・ロスの治療の際、シュリが「また白人を治療できる」と言っていたことから、バッキーもあそこで治療されたのではないかと思われる。
バッキーの再生はワカンダの科学的側面だと思われるが、ここまでの流れをふまえると、むしろワカンダの呪術的土壌があってこその目覚めだと考えても面白い。
宗教描写がほしかった
「ブラックパンサー」はヒーロー映画としてとてもよくできているし、「ヒーロー映画」に対してこんなことを言うのも野暮なのだが、ここまでワカンダという国の呪術的儀式をしっかり描写しながら、その儀式の背景にあるはずの宗教についてほとんど語られなかったのが少々残念だった。
女神の話が少しだけ出てきたが、彼らの死生観やそこから生まれる価値観についてもう少し知ることができたら、あの儀式や儀礼の意味もより深くわかっただろうし、さらには新王キルモンガーのために働くと言ったオコエの考えによりいっそう寄りそえたと思うのだ(ここは作中の描写だけでも十分熱かったが)。
ただもしこの作品に緻密な宗教描写を入れていたら、どうしても現実にある宗教対立を思い起こさずにはいられなかっただろう。「虐げられてきた黒人」をひとまとめに語ることができなくなってしまう。
キリスト教文化と非キリスト教文化の対立構造に持ち込んでしまうと、現在はたくさん存在する黒人キリスト教徒の共感が必ずしも得られない。
だからこそあえて宗教描写は「ヒーロー映画」らしく「雑」になったのだろう、とわかる……のだが、せっかくあれだけ衣装や大道具小道具にまでワカンダデザインにこだわりを持って作られたのだから、その意匠の背景にあるはずのワカンダの宗教についてももう少し知りたかったな~というのが本音。
そしてもしもう少し踏み込んだ宗教描写があったなら、わたしもこの映画に対して「政治的だ」という感想を持ったかもしれない。
いや「ヒーロー映画」としては、この取捨選択は正解だったとわたしも思うよ!
なお本作ではたびたび「埋葬」の重要性について言及される。
埋葬された者だけがあの「死者の世界」に行くことができるという教義でもあるのだろうか。
埋葬の風習が生まれる理由はその土地の風土、文化によってさまざまだが、わたしは「死者の世界における再生のためには埋葬が必要だから」説を推したい。
「死と再生」の連鎖を断つキルモンガー
さてこの「死と再生」の呪術的側面は、ワカンダにおける古来からの伝統的儀式だと思われる。ティ・チャラがあの「死者の世界」で見た過去の王たちも、彼と同様の儀式を経て王になったのだろう。
王となったキルモンガーは、ハーブを焼くことでその儀式を断ち切ろうとした。
その直接的意図は、他人がハーブを使うことで自分の地位を脅かすのを防ぐためだろうか? ハーブ無しでも十分に強いキルモンガーなら、ハーブの存在ごと消してしまうのがいちばん安全だという発想に至るのもわかる。
父親を殺し自分を見捨てたワカンダの伝統への腹いせもあったかもしれない。
もうひとつ、埋葬(おそらくは土葬)を重視するワカンダ文化に対する、火を用いた攻撃の意図も感じた。
土葬文化を持つ宗教において、火葬はしばしば最大の禁忌だったりする。死者の肉体を保存することにより死後の復活への願いを託す者にとって、復活するための肉体を失わせる火葬は「絶対にこいつを復活させないぞ」という意味を持つ。だから中世~近世ヨーロッパにおいて、火刑は死後の復活すら許さないという最も重い処刑方法だった。
長い年月にわたって「死と再生」を繰り返してきたあの聖域を焼き払うという行為は、ワカンダの宗教およびその文化に対する最大の攻撃だったのかもしれない。アメリカというキリスト教文化圏で育ったキルモンガーのしたことだからこそ、余計にそう思う。
また別の解釈も可能だ。
キルモンガーがハーブの力で父親と再会したとき、彼は「死は誰にでも訪れる」と口にした。とりわけ避けるべきものでも忌むべきものでもない。これが彼の死生観であり、彼の最期のシーンにつながる重要なセリフだ。
彼は死を受け入れ、再生を望まない。
ワカンダの死生観とは異質なものである。
そんな彼だからこそ、死と再生を繰り返し――つまり何百年間も外の世界に背を向けたまま同じことを繰り返してきた歴史の連鎖に楔を打ちこめたのかもしれない。
そして彼とは異なる死生観を持つティ・チャラが、最後に彼の考えに寄りそいその死を受け入れることができたのは、王としての成長なのだろう。
たまたま目についたモティーフに興味を持ったためざっと検索してみたのだが、日本語だとあまり語られている記事が見つからなかったのでひとまず目立つシーンだけまとめてみた。考察のネタにでもしてもらえたら幸いである。