NOW OUR WATCH HAS ENDED.
ここはもう「ポストゲームオブスローンズ」の世界……。
ひとつの時代が終わって、その後の世界に今生きているのだという妙な感傷がある。
幸いにも国の滅びを経験したことのない民であるわたしにとって、「ひとつの時代が終わった」という感覚をこんなにも実感として味わう機会は珍しい。かみしめよう。
さて例によって、やっぱり今この時間にしか書きとめられない言葉があるというのはわかっているので、寝不足になるのは承知で書いておくことにする。寝不足の火曜日も今週で終わりだ。
ネタバレするので、未視聴の方は絶対に以下に立ち入らないように!!!
さて、どこからいこうか……。
ティリオンの演説
やっぱり、このブログ的にはここからか。
いやあなんというか……まさかここまではっきりと作中で語られることなんてないと思ってたからさ……先日わたしは相当熱弁したのだが、別に書かなくてもよかったなこれ。
ヒーローの皮をかぶったアンチヒーロー「ゲームオブスローンズ」8-5考察 - なぜ面白いのか
まあいいか、これは自分がすっきりするために書いたのだし。
あそこでティリオンに割ける尺よりも長めに語っているから、多少は補足としての意義があるか。
ティリオンの後半の演説に対して、せっかくなので少し補足しておきたい。
あれは「物語」賛歌なのか? その意味も確かに含まれているだろう。でもわたしはむしろその逆の意味で捉えた。あれこそが「物語」信仰への警鐘ではないかと。
デナーリスの虐殺(親方や貴族の処刑)を、彼女の支持者(と視聴者)は「解放者(あるいは女性)による英雄的行為」という「物語」として喜んで受容していた、その先にあったのが民間人の虐殺だという、ティリオンはそこを言いたかったのでは?
時として、「物語」の前に「現実」は無力だ。
どんなに嘘くさい「物語」でも、人々が求めればそれは受容される。実際に目にした「現実」の意味すら「物語」に都合よく書きかえられる。しかもいずれ被害者になるかもしれない立場の人たち自ら、喜んで書きかえる。
我々がドラマの中で実際に目にしていたのは虐殺シーンなのに、それを「英雄物語」のように受容してしまう。
だって「物語」は「現実」よりもずっとわかりやすいし、気持ちがいいから。「現実」を理解するにはたくさんの勉強をして、学んで、考えて、省みて、それをずっとずっとやり続けないといけないから。ティリオンはそれをかみしめていた。自らも「物語」信仰に堕ちた者として。
このブログ的には、「物語」を作る名人、もはやマスターオブストーリーテラーと言ってもいいポジションにいるのがピーター・ベイリッシュだ。彼もまた「現実」よりもわかりやすい「物語」を用意して人々を操ってきた。
彼は「国家も愛も幻想」だと言い切った。それらも「物語」にすぎないのだと。
デナーリスが玉座に「1000本の剣」が使われたという話をしたとき、「小指がそこに1000本もないって言ってたよ」とつっこんだ全世界100万人の小指ファンのみんな~! デナーリスが玉座に手をかけたとき、「小指が剣を数えてたら指切ったらしいから気をつけてね!」と画面に叫んだ小指ファンのみんな~!
人々が「現実」よりも「物語」を大事にすることをよく知る者が人を操ると、あんなにうまくいくんだな。
このへんについてはまた機会を設けてじっくり語ってみたいところ。
わたしは今回、ティリオンの反省に最も心を打たれた。
「うぬぼれていた」と彼は言った。「彼女を導けると思った」と。
ティリオンは「王の手としてデナーリスを導き、彼女が良いクイーンになるのを補佐し、良い世界を作る(ことでこれまで感じてきた「有罪」であるという自認から解放される)」という「物語」にはまっていたのだろう。デナーリスと出会ってからの彼にいまいち切れがないように感じられたのは、結局そういうことだったのだと思う。彼は「物語」の犠牲者でもある。
そしてたぶん、視聴者も同じ物語にはまっていた。最後はティリオンか誰かがデナーリスを説得して、彼女が良い決断をするよう導けるのだろうと。でも結局、そんな「物語」は幻想だった。
もし本当にこの「物語」を現実のものとするなら、サンサと同じようにデナーリスも「学ぶ」必要があった。書を紐解き、父親がなぜ人々から「狂王」と呼ばれるのか真摯に学ぶべきだった。ヴィセーリス視点から語られる「物語」だけではなくほかの人々の語る「物語」にも耳を傾け、歴史を立体的に捉える試みをすべきだった。歴史を知り、どのような王が国を栄えさせるのかを知るべきだった。
デナーリスもまた、自らの語る「物語」以外に耳を傾けない。確かに炎からドラゴンとともに出てくる以上の「物語」なんて必要ないと思っても仕方ないのかもしれない。
「ジョンとともに統治する」「自分の『物語』を妨げる『悪役』は自分が頑張って倒す」彼女はそんな「物語」を信じて死んだ。
「物語」はわかりやすくて魅力的で、しかも圧倒的な力がある。「現実」は難しくて思い通りにならない。
でもやっぱり我々は、「現実」をなんとかするために常に反省し、学び続けなければならないのだろう。ティリオンのように。
わたしは3年前に書いたこの記事で、ティリオンのことをこう書いている。
考え「続ける」ことができる、それを「楽しむ」ことができるのがティリオンの最大の強みだと思う。
今日、改めてそう思った。
学んで終わりじゃない、それを「続ける」ことができること。
その行為それ自体を「楽し」めること。
それがティリオンというキャラクターで、だからこそ「物語」信仰から脱却し前に進むことができた。
学びて時に之を習う。亦説ばしからずや。
文法大臣ダヴォス
同じように「学ぶ」というテーマを体現したもうひとりのキャラクターがダヴォスだ。
スタニスに文法を注意されてきたダヴォスが、今さら字が読めるようになったってと学ぶことを拒絶してきたダヴォスが、息子に諭されても無視してきたダヴォスが、その息子を失い、シリーンに文字を教わり、真摯に学ぶ姿勢を見せ、しかしそのシリーンも失い、スタニスも失ったダヴォスが、ブロンの文法を注意した。
最初は「マスターオブグラマーwww」と爆笑したのだが、その後あのシーンの意味を思って今度は泣いた。
また過去記事からの引用になるが、わたしはS5を見終えたあとにダヴォスについてこう書いている。
文字、すなわち知に至る道を獲得することで、ダヴォスはようやく「大人」になった。
息子の意見にも素直に耳を傾けることができるようになった。
過去を知り、他者を慮り、未来を想うことができるようになった。
シリーンのかわりに。
あの文法大臣のくだりは「後日談パート」中のちょっとした息抜きとして用意されたのだろうけれど、あのほんの一瞬のやりとりで、スタニスとシリーンとダヴォスの息子(ごめん名前が思い出せない)のストーリーラインが回収されたように感じられた。
ダヴォスはきっと、シリーンを失ってからもひとりで学び続けたのだ。
彼にとってそれは追悼と後悔が伴うものだったかもしれないが、それでも。
シリーンが見られなかった世界のその先を、少しでも良いものにするために。ダヴォスはこれからも学び続けるのだと思う。
奢らず真摯に学び続けることはとても難しい。
ティリオンのような賢人でさえも。
血筋とか出自とか運命とかが未来を決めたんじゃない。
「現実」を観る力=学び続ける姿勢こそが大切なのだ。
……というようなメッセージをとりあえず受信してみたが、同じシーンをまっっっっったく異なる解釈で読み解くことだって全然できる。
昨夜「この中で誰かひとりでも生存者がいたらハッピーエンド」とまで思いつめていたわたしにとって、(いろいろ言いたいことがないわけではないが)この結末は思った以上にちゃんと終わらせてきたなという第一印象だ。
今のこのとっちらかった印象がもう少し落ち着いたら、全体を振り返りつつまたいろいろ考えてみたい。
しかしわたしが「ゲームオブスローンズ」で初めて考察めいたことを書いた記事が、ラニスターを通して「知」とは何か、「学ぶ」とはどういうことかについて考える話だったのが、なんつうか、ここに戻ってきたんだなあという感じ。
わたしはわたしの抱える「物語」を通してこの作品を見てるんだよな。