「オクトパストラベラー2」でなかなか濃厚な地獄を堪能したわたしは、次は気楽に遊べそうなゲームをということで、発売当初から気になっていた「ハーヴェステラ」をやることにした。
これ、発売当時に見たトレイラーを見たヒカセン(FF14プレイヤー)が一斉に「エオルゼアでは????」と言っていたのをよく覚えている。町中にエーテライトみたいなものはあるし、偏属性クリスタルみたいなのもあるし、メテオが降ってくるし。スクエニゲーだしあえてそうしたところもあるのかな~と思っていたのだが、どうなんだろね。
生産系ゲームは牧場物語とかルーンファクトリーとかに一時期結構はまってだいぶ遊んだのだが、ここ数年はご無沙汰。ルーンファクトリーに近いゲーム性を期待して買ってみた。
今のところ農業して釣りして採集して戦闘もして……と大体期待した感じのゲーム性ではあるが、序盤から割とがっつりSF要素があって、パーティメンバーとの交流イベントはあるものの町の住人はほとんどモブ、という感じだ。
現在季節は秋に入ったところで、冬の町に着いて冬ダンジョンの探索を始めたところ。春ダンジョンをクリアしたくらいからサブクエストがぼこぼこわいてきてやることが多くなり、サブクエストクリアでお金も入るようになり、俄然楽しくなってきた。
時限イベントがないおかげで農業も釣りものんびりできるし、あれもこれもやりたい中で急かされることなく好きなことを好きな順番でやれるのは大変良い。
しかし同棲中のヒロインが危険な場所に行ってしまった! みたいな緊急性の高いイベントが発生しているにもかかわらず、ゲームシステム上、夜になったら捜索を打ち切ってさっさと家に帰り、きっちり爆睡して、朝になったら畑の手入れをして、しまいには自宅のリフォームを始める主人公はだいぶやべーやつに見える。
いやたしかにほかのゲームでもその手の緊急性の高いクエストが発生していながら寄り道したり、帰って寝たり、あるいはほかのクエストを優先したり、数週間放置したりすることは珍しくない。だがそれは「日付」「時間」というものが作中であまり意識されないゲームの場合だ。
ゲーム内に明確に日付と時計が表示され、リアルタイムで時間が進行していることが示され、しかもその時間の進行にゲームシステム的にも意味がある(作物の育成的な意味で)となると、ほかのゲームに比べて「時間」というものがはっきり意識されることになる。「寝て起きれば次にやってくるのは新しい一日である」ことが作中でしっかり感じとれてしまうので、「夜になったら帰って寝る主人公」がやべーやつに見えるのだ。
たぶんここまで緊急性の高いクエストにせず(少なくとも序盤には緊急性の高いストーリーを持ってこず)、「農作業の合間に時間があったら調査してみてね~」くらいのテンションのメインクエストであれば、主人公もここまでやべーやつには見えなかったのではないか。
……と、おそらくゲーム発売後100万回くらいは言われていそうな感想をとりあえずわたしも書いてみた。
シナリオとゲームシステムが致命的にかみあってない気はするのだが、しかしこのゲームシステムだからこそやりたいシナリオをやろうとしてるんだろうなという感触は現段階でなきにしもあらずだし、単純にプレイヤーとしては時限イベントがない方が気楽に遊べるのは間違いない。暦のある世界なのにカレンダー系イベントがまったく発生しないのはちょっと残念だが。
「こんな深刻な話をされたばかりだがもう夜なので即帰宅!」「なんかボスっぽいのが目の前にいるけどいっぺん帰って寝て農作業してからまた来るね!」みたいな状況にいちいち爆笑しながらプレイするのが正しい姿勢なのだろうと割り切ってしまえば、今のところゲームとしてはとても楽しい。主人公がまわりの人間にどう思われているかについては考えないことにする。
ファーストインプレッションについてはそんな感じ。
以下、冬の町のダンジョンくらいまでの多少のネタバレこみの感想。
主人公以外も倫理観やばめ
どんな緊急性の高い事件よりも睡眠を大事にする主人公だが、それを囲むまわりの人間も倫理観がおかしい。プレイ時間が長くなるにつれて麻痺してきたが、序盤のわたしの感想メモを見ると混乱しまくっている。
まずリフォーム屋が家主の寝ている間に、家主の許可なく家に入り、家主の希望を聞くこともなく勝手にリフォームを終わらせていた。コンプライアンスどうなってますの。
これドット絵のゲームならそんなに気にならないと思うのだけど、頭身がまあまあ高いきれいなグラフィックのゲームだからリアルの感覚で考えてしまうんだよな。
それからいくら得体の知れないよそ者だからといっても、若い男女(わたしの主人公は性別ニュートラルだが体格は男性風)をいきなり同棲させるか? 田舎の労働人口不足問題の解消を狙っているのか???
あと同棲中のヒロインがプレゼントをくれたが、爆弾のレシピだった。やべーやつしかいねーなと思っていた世界に、やべーやつがまた増えてしまい絶望に襲われた。このヒロイン、正体を明かしてくれないが元テロリストか何かか。
パーティメンバーが悩みがあるというので相談に乗ったらお礼をくれたのだが、ゾンビキノコとかいう毒々しいアイテムだった。その価値はともかく、贈答品にするにはネーミングがいまいちではないだろうか。
そんな倫理観やばめのアベルたちに囲まれているせいでわたしの主人公も倫理観ゼロ言動をとり始めた。世界の危機を調査しろという話だが、普通に断ってしまった。俺が守りたいのはこの畑だけなんだよ!!!
しかし環境に異変があると農業もできなくなると諭され、渋々調査することになってしまった。そうなるよね、知ってた。だがもうわたしはこのまま倫理観ゼロプレイでいくことに決めた。この世界はその方が楽しめそうだ。
ディスコミュニケーションからのクエスト発生
サブクエストがどんどん発生するのは楽しいのだが、登場する住民たちがどいつもこいつもディスコミュニケーションの権化なのはちょっといただけない。ほうれんそう不足、対話不足が原因となったトラブルが大半。全体的にギスギス。こういう話作りは2010年代後半くらいから大手のコンテンツではあまり見なくなったのだが。
久しぶりにディスコミュニケーションからうまれる人間関係ギスギスイベント→主人公の仲介により誤解が解けた! 解決! みたいなクエストを見ると、正直なところ「普段から円滑なコミュニケーションを心がけてほしい」「人間関係の構築のしかた、コミュニケーションのあり方そのものを反省しない限りまた同種のトラブルが発生するだろう」という感想ばかりが先に来る。
というか最近のゲームって本当にこの手のシナリオが減っていたことに改めて気づかされて、そのあたりはたぶん作り手の価値観のアップデートゆえなんだろうなと思ったりした。あとはギスギスをできるだけ排除して作られたストーリーが大ヒットした影響で、その手法を真似た作品が続いているというのもありそう。
仕事が忙しい大人たちと一人で危険なところに行く子供たち
プレイヤーはのんびり自由に楽しみたくてこの世界で遊んでいるのだが、この世界の大人たちは「仕事が忙しい」と子供を放置しがち。なんで?
この世界ってそんなに家庭の不和を招くほど仕事に追われる人が多いの? 主要産業が何なのかもわからない町が多い(シャトラは漁業だと思うが)のにそんなに多忙アピールされてもピンとこない。
そして子供たち……というか子供に限らずこの世界の人たちは危険なところに一人で行きがちだ。そして主人公が救出に行くことになる。それ自体は古今東西さまざまなゲームで何度も使われたお約束シナリオだが、ひとつの作品内で重複しすぎると「お前もか」以外の感想が出なくなるし、茶番感が増す。
あと子供たちはどいつもこいつも理路整然と考えていることを言語化する能力が高すぎるし、逆に大人たちはどいつもこいつもディスコミュニケーション状態だ。大人と子供にグラフィックの差はあるが、能力的にはほぼ同一の存在なのではないか。
一般的な子供はこんなに理路整然としていないし、一般的な大人はここまで理不尽な(自分および他人に明確な損害が出る行為を積極的に選ぶような)ことはしない、というのが自分の感覚だ。
もちろん理路整然とした子供は現実にも存在するし、愚かな大人はいくらでも存在する。でもそれならそれで彼らを「理路整然とした子供」「愚かな大人」として描くべきであって、どこにでもいる一般的なモブのような顔で登場されると違和感大爆発なのである。
三歩で捻挫しそうなハイヒール
この世界の主要キャラクターはやたらと、三歩で捻挫しそうなハイヒールをはいている。
あとエモちゃんもすごい厚底+そこそこのハイヒールだった気がする。
これはキャラクターデザインの人の趣味なのだろうか。
わたしとしては見るたびに捻挫しそうだと思って気が気ではないが、突き抜けたフェティシズムの表現それ自体は好感が持てる。
なお誰にも聞かれていないのに勝手にアピールするが、わたしは素足フェチである。
まとめ
めちゃくちゃツッコミを入れながら語ってしまったが、楽しく遊べているからこそのツッコミでもある’(こんな感想を書くよりも、早く畑に戻って秋の作物を収穫したい)。
「なぜこのストーリーや人物描写に違和感があるのか」を考えることはわたしにとってなかなか大事なことのように思えたので、頑張って言語化してみた次第だ。
しかしたぶん、登場人物の言動に関するツッコミのほとんどは、ドット絵だったらスルーできていたと思うのだ。グラフィックが向上するとどうしても、キャラクターたちを「生身の人間と同程度の能力がある人物」だと考えて、それ前提の評価をしてしまいがちだ。つまり映画やドラマの登場人物と同水準の描写でなければ違和感が出てしまうことになる。
ゲーム表現の技術も多様になり、映画のようなグラフィックの作品も珍しくなくなった。そういう作品には自然とそういう人物描写が求められる。このブログで感想を書いた中だと、「デスストランディング」や「デトロイトビカムヒューマン」は映画のようなグラフィックと映画のような緻密な人物描写の組み合わせが成功した作品だった。
一方でドット絵という表現であれば、古典的な「ゲーム的表現」が許される部分がある。「オクトパストラベラー」なんてまさにその典型だった(あの話がリアル頭身のグラフィックだったら描写がえぐすぎる)。
常に「やりたいシナリオ」と「やりたいゲームシステム」にぴったり合った表現方法を選ぶことができればベストなのだが、それってなかなか難しいことだったりするのかもしれない。