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滅びはなぜ訪れるか「ハーヴェステラ」クリア後感想

「ハーヴェステラ」ついにクリアした!

久々にやった生産系ゲームということで、なかなか楽しく遊べた。

スクエニらしい幻想的な景色の中で畑を耕し、料理をして冒険に出かけるのは、まあFF14でもやっているのだけど、こっちはこっちで楽しかった。

シナリオも結構面白かったのだけど、なんというか……FF14十三機兵防衛圏をやっていない状態だったらもっとのめりこめたかなあという感じだった。割とどのシーンも既視感がすごいというか。最近流行のシナリオ傾向といえばそうなのだろうけど。

ただそれらと比べるとシステム、シナリオ、演出のどこをとってもあと一歩な感じで、たぶん予算不足だったんだろうなと思っている。

それからわたしとしては主人公に対してどんな危機的状況よりも睡眠と農業を優先させる、倫理観が壊滅したやべーやつという評価だったのだが、NPCからは並外れたお人よしのいいやつという評価だったことに驚いた。そうか、ゲームシステム的に必要だった帰宅睡眠農作業は、NPCにとってはなかったことになってるんだな? ならなんで睡眠と農業が必要なシステムを採用したんだ? という気はするが……。

わたしはこの物語は主人公が一次産業従事者だからこその解決をみるのかと予想していたのだが、なんかあんまり関係ないお話に終わってしまい、そのへんはちょっと拍子抜けした。なんで睡眠と農業が必要なシステムを採用した? 死季の危険性をわかりやすく伝えるためだけか?

 

以下、エンディングまでのネタバレ感想。

クリアしたのは2年目の夏で、サブクエストなどはたぶんひととおりクリア済み。クリア後のダンジョンは手つかず。レベル72だったんだけど育てすぎ?

割とこの世界を満喫していたとは思うのだが、満喫していたからこそいろいろ言いたいことがあったり惜しいなあと思ったりしたことを書いてみる。

プレイ中の感想はこちらから。

ssayu.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

問題の解決について

6章開始時点で想像したシナリオは概ね正解だった。

食糧生産の安定と人口抑制を両立させるために、魔族が人類の間引きを行っているという描写もちゃんとあったのでヨシ!

ただ、そういう状況を提示されてしまうと、この状態の「解決」とは何かということを考えざるを得ない。

シーズライトによる便利な生活を与えられ、文明水準も人口も魔族によってコントロールされているディストピア的なユートピア。それは果たして本当の理想世界と言えるだろうか?

最終的に「与えられたシーズライトを破壊して、管理された社会から脱却し、自らの力で畑を耕し生きていかなくては人類の自立はない。そのためには、(シーズライトの恩恵を受けつつも)自ら荒れ地を開墾し、作物を育て、クラフトでさまざまな道具を作ることもできる、一次産業従事者代表主人公氏の経験が不可欠である」みたいな落としどころにするのかと思ってたのだけど、それだとどうしても「生産系ゲームのお楽しみであるクリア後のやりこみで延々と作物を作り続けるフェーズ」が不可能になっちゃうんだよな。だからシーズライトはそのままにしつつどうやって決着をつけるのかなあとずっと思っていた。まさか死季の解決だけで終わってしまうとは。

まあ喫緊の死季問題さえ解決すれば、あとは時間をかければカイン種とアベル種の併存も実現するかもしれないし、管理社会からの脱却もできるかもしれない。

ただし管理社会からの脱却がなり、人類が魔族から自立して文明を発展させるようになれば、必ず再び戦争は起こり文明は腐敗する。この世界における人類の集合的無意識が滅亡を望んでいるのは事実のようだし。

まさにこういうことよね?

主人公たちのしたことは、問題の先送りでしかない。「先のことはどうなるかわからないけど、今は滅びを望んでない」というのが主人公たちの出した結論である。いわゆる not today というやつ。それ自体はよくある結論だし、納得感のある落としどころだ。

ただ彼らは集合的無意識を否定して人類存続を望んだけれど、村に帰れば「どうせ第二の死季がくる」「わしらは罪深いのじゃからな!」とか言うモブ住人が普通にいる。めちゃくちゃ萎えたんだけど、こういう人が実際にいるからこそのガイアの結論だったわけで、そういう人を作中にちゃんと出すのは大事だったのかもね。

モブ住人たちが誰も何が起こったのかを認識していないし、知ろうとする気もないというのがなかなかにプレイヤーの絶望を煽る。謎の飛空艇が頭上を飛び交って、シーズライトがあれだけ異変を起こして、一部地形が変わったりしているはずなのに、誰も何も気にしていない。

このときの絶望感たるや

魔族たちは本当に人類を上手に管理していたのだろうし、だからこそ「知らなくてもいい」という価値観がこれだけ普及しているのだろうし、これだけ世界に無関心で危機感がないと、管理されていなければ滅ぶよなあと思ったりした。

それもこの先変わっていくといいなあと思っていたのだけど、エンディング後にも「わしらは罪深い」ときたからもうがっくりよ。そんなんだから滅ぶんやで!!!!! と声を大にして言いたかった。まあそんなすぐには変わらないってことよな。

 

そういえばリ・ガイアって人の暮らす町はあの、日帰りできる距離の中にある町がすべてなんだろうか? さすがに狭すぎないか? 3つの町に行ったあと、さらにここから世界が広がっていくのを楽しみにしていたのだけど、あれで終わりだったとは。

後半に行ける拠点が増えなかったのはちょっと残念だし、後半が畑とダンジョンの往復だけになってしまって単調になりがちだった気がする。

世界が広がってそこで出会う人が増えるほど、「この世界」を守る意味も出てくると思うのだけど、日帰り圏内の人間関係だけで完結しているとやっぱりチープな印象になってしまう。

 

 

キャラクターの作りについて

仲間NPCとのエピソードで、どのキャラにも愛着がわくようになって、連れ歩くのは楽しかった。

ただアリアのエピソードが解放されるのが終盤になってからで、序盤は本当に彼女に対して何の思い入れもないまま助けに行くことになるのはいまいちだった。序盤から、ただ日常を過ごすだけのエピソードでいいから何かしら「プレイヤーからアリアへの好感度」が上がるイベントがあったらだいぶ印象が違った気がする。

 

イスティナは孤児を集めて暗殺者として育てる集団に所属していたらしく、オクトパストラベラー2のソローネとよく似ている。ただソローネはその所属集団がどういうことをしていて、どんな仕事をしていたのかという部分がきっちり描写されていたのだが、イスティナはそのへんの描写が薄い。結局暗殺者集団のボスもいいやつみたいな終わり方だった。

なので「私には暗い過去が……」と言う割に、いまいちその悲惨さが伝わってこない。誰がどんな相手に殺意を抱いて仕事を依頼していたのかもわからない。「暗い過去があるという記憶を植え付けられただけの人」だったらどうしようかと最後まで疑っていたが、そんなことはなかったぜ。

結果として、魔族たちは争いのない管理社会を目指していたにもかかわらず、孤児がろくな保護を受けられず(魔族が人口の間引きを行っていたので孤児が出るのは必然)、専門家を雇ってまで他者を暗殺しようとする人が恒常的に存在するろくでもない世界だったことだけが明らかになった。

 

プレイ中、仲間たちがことごとく「今日は解散」「また手紙を出す」というフレーズを入れてくるのがほとんどギャグになってしまっていた。いくらなんでもシナリオライターの語彙が少なすぎないか。ストーリーを全10話にする必要があり、小出しにしなければならないのはわかるのだけど、もうちょっと自然な流れにならなかったのか。

キャラクターから手紙が届くのは嬉しかったけどな!

だからこそ、ストーリー後半になるとサブクエストもほとんど終わってしまってあまり手紙が来なくなり、寂しかった。「特定の作物を〇個収穫したら」みたいな条件で、村長や仲間からはげましのおたよりやプレゼントが届いてもよかったのではないか。

 

あとこれは本当に本当に気になったのだが、人口知能も村長も医者も「ら抜き言葉」で話すのは勘弁してほしい。若者や、高等教育を受けられなかった人が「ら抜き言葉」を使うのは、無教養の表現としてアリだと思うのだが、正しい文法を習得しているはずの人口知能や知的階級の人たちまでそういう言葉遣いをしていると、単にシナリオライターが無教養かつちゃんとした校正をする予算がなかったというアピールになってしまう。

 

主人公の設定は面白かったな。

死季の日にふらっと現れて、以前の記憶がなく、倫理観は壊滅、謎の少女と会話している。睡眠時間さえ確保すれば、何日も飲み食いしなくても稼働可能。

アリアが過去の人類の生き残りだと仮定するなら、主人公はまた別の存在ではなかろうか。医者に診られても異常なし、魔族に観察されてもアベル認定だったから、人類ということで間違いはないのだろうけども。

真っ先に思いつくのは、人類が遺した人口生命体、とか。ほらあのドラゴンコントローラーみたいな。文明再建のためのパーツだったり、あるいは主人公も兵器としての存在だったり?

人と交流しただけで相手の能力をコピーできるのだから、やはり特殊な戦闘を想定した兵器かもしれない。魔族が誰も主人公の存在を特殊だと認知していないのは、ごく少数による極秘プロジェクトだったから、みたいな。

前の記事ではこんな適当な予想をしていたわけだが、どうやらプレイヤー=主人公だったというオチらしい。正確には、プレイヤー(西暦の記憶を持ち、主人公のたどってきた農業と冒険の記憶も持つ)の意識が主人公の選択に介入しているということかな。

主人公のセリフの選択肢に、そのときの自分が言いたいことがほとんど含まれない(どのセリフもそのときの自分の気持ちにそぐわない)のはなかなかストレスだったが(主人公のセリフについてはFF14と同じ形式なのだが、14ではそこまでストレスを感じたことがないんだよな。これは14のシナリオライターと自分の感性が割と近いからだと思っている)

プレイヤーの介入があったからこそ死季の解決に至ったという見せ方はすごくよかった。

 

 

演出について

これはわたしが最近FF14という予算規模が全然違うであろうゲームの演出に慣れているからだというのもわかっているのだが、全体的に演出がチープだったのは否めない。

モーションは少なく、キャラの表情も変化しない。ゆえにカメラは常に引き気味の似たような構図で、表情のアップや視線、指先の動きで語るような演出は皆無。

効果音もあまりなく、音楽も単品で聞けばいい曲なのだが、使いまわしが多くて場面のテンションと曲が合ってなかったりするのがもったいない。それから曲の入り方や繋ぎ方が全体的に雑。逆に、普段いかにそのへんの演出に気を遣ったゲームをしているのかに気づかされた。場面が切り替わったので音楽を流しまーす、だけではダメなんだな。

 

 

なんかこう、おおむね面白かったし夢中になって遊んだんだけど、いろんなところがあと一歩洗練されてないな……という印象をずっと抱えたゲームであった。予算をどう配分するかって難しいよね。

なぜゲーム全体がこういう印象になったかを頑張って言語化しようとしたので愚痴めいたことばかりになってしまったが、単純につまらないゲームなら途中で投げ出してしまうはずなので、つまらなくはなく、いろいろ惜しかったしツッコミを入れたいと思えるくらいには夢中になってたんだよな。

ほかのFF14プレイヤーがこれをやるとどういう感想になるのかがとても気になる。

 

さてこのリンクの下は、シナリオの構図がよく似たFF14との比較。

FF14暁月のフィナーレのネタバレを含むため、未プレイの方はバック推奨。

 

 

ssayu.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

FF14との比較

 

 

 

 

 

 

これは新生エオルゼアで見たやつ

ハーヴェステラの物語構造って、FF14の新生+暁月をギュッと圧縮して薄めた感じだよね?

主人公が手を差し伸べてきた人たちが世界にたくさんいて、その人たちが最後の戦いで力をくれるっていう。それ自体は近年流行している物語構造だし、新しくはないのだけど、結局これって見せ方次第で感動もするし陳腐にもなる(同じスクエニ内で似たようなお話を間を空けずに出すのって大丈夫だったんだろうか?)

この物語構造は、主人公がどれだけ世界を広く知って、どれだけの人と関係性を結んだかがうまく描写され、積み重ねられていて、そのことが最終局面でうまく想起されると感動できる。

暁月のラスボス戦はそこがすごくうまかった。

世界が終末を迎えようとしていることを、あの世界のNPCたちはモブに至るまで認識し、危機感を持ち、どうにか立ち向かおうとしていた。そして主人公に力を貸してくれた。

「想いが形になる空間」という設定が提示された中で、仲間たちの「祈り」が主人公を守る形になる。これまで主人公があの広い世界を旅して出会ってきた何人もの人たちの「祈り」にも後押しされる。だからこそこれまでのストーリーが一気に集約されたことになり、感動できる。

ウルティマ・トゥーレ空間の説明があるからこそ、「あの空間で光の戦士たちが戦い続けている」ということがそのままエンドシンガーの「絶望観」を否定する形になり、ゆえにこそ彼女の「違う違う違う!」という必死の羽バタバタ攻撃が「焦り」に見えてすごくよかったのだ。

 

一方のハーヴェステラはというと、たしかに仲間NPCとの縁は結ばれていた。彼らの人生に深く介入し、助けた実感もある。ただこれまでに出会って助けてきたサブクエストのモブたちについてはどうかというと、かなり微妙だ。だってわたしは彼らの名前すら知らないのだ。

「村長」「男」「おばさん」「娘」とかいう愛のないネーミングのモブたち(名前をつける予算がなかったんだろうなあ)。

中には彼らの人生に介入したと言えそうなクエストもあったけれど、だいたいはディスコミュニケーションからくるトラブルを一時的に仲介しただけで、根本的なコミュニケーションの問題は解決できていない。

彼らが滅びの危機に対してどう思っているかの描写はない。ほぼスルーというか、何が起こっているのか知ろうともしない。

「これまであなたが助けてきた人たち」も力になってくれている的な描写はあったものの、本当にそうだろうか? と思ってしまう。

少なくともわたしは、集合的無意識を否定できるほどの希望を彼らに抱けない。

もうね、似たような構図の物語なのに描写のしかたひとつでこんなに印象が違うのか、と自分でも驚いたくらい。

ラスボス戦でのオート回復による勝利演出ももっとうまくやれば感動的だったと思うのだが、ウルティマ・トゥーレのような設定の説明もなく、絆も薄く、主人公たちの危機的状況を知る手段も知る気もない彼らが、主人公の背中を押して forge ahead と言ってくれる気がしないのだ。

しかも仮に今まで出会ったモブが本当に力をくれていたとしても、結局日帰り圏内の狭い人間関係で完結してしまっているしな……。

あのオート回復はリ・ガイアのパワーだったのかな、ということで一応納得しているのだけどね。

 

あとメーティオンとガイアの描写の違いも大きい。

メーティオンがエンドシンガーになる前の、青い鳥だった頃をちゃんと描写しているからこそ、絶望に黒く染まる演出が生きるわけ。そして「たったひとつの答えなんてなかったんだわ」という涙ながらの言葉にこっちも泣いたわけ(声優さんの熱演も大きかった)。

急に出てきて集合的無意識により滅亡を選択しましたと言われても、思い入れがないので、OK倒そうぜ! 以外の感想が出てこない。ボイスがないのはしゃーないにしても、もうちょっとうまく演出してやればラスボス戦はもっと盛り上がったのにと思ってしまう。

なんかこう、ずっとFF14と似てるなーと思っていたからこそ、比較してチープだなーという印象を持ち続けてしまった。やっぱ予算規模の違いなのだろうけど、もうちょっとなんとかなる部分があったんじゃないかと惜しく感じる。

そして逆に、普段遊んでいるゲームは、あまり意識されない部分にもいろいろな工夫があって快適に遊べているんだなと思ったりもした。

次回作があるならチェックはするので頑張ってほしいところ!

 

 

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