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不思議系民話かと思ったら貴種流離譚だった「ドラゴンクエスト6」プレイ日記1

先日何気なく読んでいたドラクエ6の考察記事が非常に面白く、数年ぶりに再プレイしたくなり、スマホ版をやることにした。

ドラクエシリーズは4, 5, 6, 7, 8, 9, 11をクリアしている。1~3は概要は知っているものの、自分で全体をプレイしたことはない。

ドラクエ6は当時SFCでプレイして、クリアまでいった記憶がある。しかしはるか昔のことで、もはや細部までは覚えていない。でも考察記事を読みながら、そういう話だったよな~とちょっとずつ思い出してきて、今のわたしがプレイしなおしたらどう感じるだろうかと思い始めた。

幸いにも、現代においてドラクエ6スマホ版が安価で手に入る。移動時間や寝る前にちょっと遊んでみるかとダウンロードしたところ、最初の数分で懐かしさのあまり爆発四散し、そこから猛烈な勢いでプレイしている。もうね、オープニングシークエンスでミレーユが吹いた笛の音だけで当時の記憶が鮮烈に蘇るわけ。音楽の力ってすごいね。

このスマホ版、音楽がSFC版から音質も上がっているし、仲間との膨大な会話が追加されているし、ゲームシステム的にもいろいろと親切になっているし、経験値の入り方がちょっと増えたのかサクサク進めるし、2周目プレイとしては何もかもありがたい。前はライフコッドから下山するだけでもっと時間がかかった記憶がある。

しかしダンジョン内の細い道を渡らなければならない場面になると、スマホの操作性はダメすぎる。いったい何度転がり落ちてやり直したことか。小刻みな牛歩戦術でどうにか渡り切ったけど、やはりゲームは両手でやりたいし、アナログスティックも十字キーも両方ほしいと改めて思った。

今のところ不満点はそれくらいで、とても楽しく遊んでいる。もはや古典作品に触れる気持ちに近いが、ドラクエは現代に生きる者としての教養のひとつだと言っても差し支えあるまい。

そして思ったとおり、初めてプレイしたときに比べて拾える情報量が段違いだ。今のわたしがこのストーリーに何を感じるのかを書き残しておくのも面白いかと思い、せっかくなので軽くプレイ日記をつけておくことにした。

薄い記憶があるのみとはいえ2周目なので、終盤までのネタバレを含むドラクエシリーズのほかの作品への言及もあり(ナンバリング作品のみ)。

とはいえほかのシリーズ作品の記憶もだいぶ薄いので、考察めいたことはほぼできないと思われる。「大人になった今のわたしがドラクエ6をプレイするとこういうポイントを面白く感じる」というレポート程度のものになるのではないか。

なおこの再プレイのきっかけになった考察記事はこちら。

kanoh.cocolog-nifty.com
これを読んでいたら、「今のわたしがプレイしたらこれに近い感想を抱くかもしれない」と思ったんだよね。人を動かす文章ってすごいな。

 

 

縦長のプレイ環境に慣れない

 

主人公の境遇

ゲーム冒頭で、主人公(テオという名前にした)たちはムドーに戦いを挑むも、返り討ちにあって石にされてしまう。

5をプレイ済みのプレイヤーであれば、主人公たちは石像にされたものと考えるだろう。というかこのムドーの台詞を普通に読めばそういう想像をするのが当然だ。

しかし次のシーンになると、テオくんはライフコッドのベッドで目覚める。目覚めた彼は、アクセス最悪の辺境オブ辺境の村で、妹のターニアと暮らしている素朴な青年という印象だ。

たしかオープニングシークエンスでムドーと戦ったのは現実のテオくんだけど、ゲームスタート後のテオくんがいたのは夢の世界だったはず。なぜ石にならずに夢の世界にいるのかは覚えてない。精霊の加護的なのがあったんだっけ。とにかくこの世界が夢の世界だということだけは覚えていた。

ライフコッドは小さな共同体だ。テオくんは本来ここの住人でないことを考えると、テオくん世代はターニアとランド、あとランドに言い寄っていた女の子の三人しかいない。村人は信仰心が篤く、身内意識も強い。猛烈に閉鎖的になりかねないところだが、一応外界とも友好関係を保っているようだ(そもそも外界からわざわざ来る人も少ないと思われる)。

序盤のイベントでは、辺境に住む青年にとっての「大冒険」が描かれる。

年に一度のお祭りのために、村の特産品を売りに行く役を仰せつかったテオくん。山を下りるだけでも大冒険だ。

そしてたどり着いた大きな町。都市と田舎は実に対比的だ。山奥の小規模共同体には物も少ないが、全員が顔見知りで助け合うのが当たり前な関係性があり、大きな貧富の差があるようには見えなかった。しかしたどり着いたマルシェ(フランス語で市場のこと)は、「都市」である。隣にいるのは「知らない人」。この町は資本主義社会の常識で動き、肉親と言えども助け合うのではなく金儲けのために出し抜く関係が描かれる。

テオくんはそこにカルチャーギャップを感じたに違いない。ライフコッドの牧歌的価値観を懐かしく思ったかもしれない。

テオくんが冠職人を助けたのは、その牧歌的価値観からすれば当然のことだったに違いない。長年都市で暮らしてきた冠職人は、都市における個人主義からくる自己責任論に慣れていたはず。だからこそテオくんが自らの危険も顧みずに助けてくれたことへの感謝も大きかった。

テオくんは異世界に行き、しかしその異世界では「誰からも認識されない」という経験だけをして帰ってくる。頼まれていた冠は無事完成し、テオくんは共同体の一員としての重要な役割をやり遂げて帰還する。民芸品を売ったお金は全部装備品のために使い込んだが、冠は無料になったし、村長もお釣りは要らないと言ってくれたので、使い込みはバレなかった。セフセフ。

ここまでの話なら、世界の民話を探せば出てきそうな内容だ。田舎者が初めて都市に出てきて、慣れないところでおつかいをすれば、疲れて変な夢くらいみるかもしれない。初めて飲む都会のお酒に酔っぱらって幻のひとつもみるかもしれない。それだけの話、にもなり得るエピソードだ。

この導入がめちゃくちゃいいな、と思った。「あり得そうな範囲の話」なんだよ、ここまでは。初めての大役を終えた青年は、共同体の「大人」の一員として認められ、この地で末永く暮らしました、的な。この「大冒険」は、少年が大人になるための通過儀礼だったんだ、的な民話っぽいんだよ。

しかし、村祭りの夜に事態が一変する。

ちゃんと精霊様が現れている

村で信仰されている精霊様は原始宗教たるアニミズム的なものかと思いきや、めちゃくちゃ啓示宗教だった

ライフコッドは閉鎖的な村だったとしても不思議ではないが、信仰心が篤い。つまり、精霊からの啓示には無条件で従う。小規模共同体における最重要構成要素、すなわち「生産年齢の健康な男性」を手放してでも、神託を優先する。

ここまでのストーリーで彼らの素朴な信仰心や、都市のメンタリティとの違いをしっかり描写してきたからこその説得力だ。序盤の見せ方がめちゃくちゃ上手い。今更わたしなどが言う必要は1ミリもないことだが、ドラクエシリーズって物語の導入が上手いよなと改めて思わされた。

 

 

大都会レイドック

神託によって旅立ったテオくんは、マルシェよりもさらに大きな都市レイドックへと向かう。ライフコッド→マルシェ→レイドックと順当に町の規模が大きくなっていく。この序盤は、若者の立身出世物語の文法も使っている。

共同体構成員の全員が全員を知っていたライフコッドとは違い、レイドックでは誰もテオくんのことを知らない。信頼関係は一から構築していく必要がある。試練を受け、暴れ馬を手なずけて、テオくんはレイドックにおける立場を確立していく。

この地で出会うハッサンは、一見都市的な個人主義のようである。もちろん試練にもひとりで出かける。しかしそのメンタリティはテオくんに輪をかけて素朴である。また動物を手なずけるというエピソードは、世界中のさまざまな宗教で善性や聖性の証として語られるものである。

不眠のレイドック王からラーの鏡の捜索の命を受け、テオくんとハッサンは旅に出る。もはや「ラーの鏡」という言葉だけで懐か死できるわけだが、爆発四散をこらえてのふたり旅である。

 

 

トラウマの川

アムール川」という地名は覚えていた。というか、アムールでの一連のイベントは全部覚えていた。たぶん当時のわたしにとってドラクエ6でいちばん印象に残ったのがこの村だった。

このシーンもこの台詞もめちゃくちゃ覚えてるもの。村の川が赤くなったシーンだって忘れられないもの。怖かったな~。

当時は「さすがに人をひとり殺したくらいで村の川全体が赤く染まるほどの出血があるか?(しかも死体からの出血ではなく剣についた血だけで)」と思っていたのだけど、その謎も解消された。これは夢の世界。ジーナの罪悪感が膨れ上がって(たぶん子どもたちの「北の洞窟で宝探し」という話がきっかけで)、夢が大規模に汚染されたのだ。

この洞窟のボスがメダパニを使ってくるのも、当時きつかったなあ。そして今回もきつかったな。でも今回は味方同士の殴り合いはあまり発生しなかったから、ちょっと難易度が抑えられているのかも。でもジーナの絶望を理解するためには、あの当時の絶望的なボス戦くらいがちょうどよかったのかもしれないとも思う(まあ当時のわたしが単にゲーム慣れしていなかったせいでボロボロになっただけかもしれないのだが)。

そういえばミレーユに会ったときの安心感はすごかった。

テオくんひとりが誰にも気づいてもらえなかったときは「夢でもみたのかもしれない」と言われそうだったことが、ハッサンが加わったことで「共有できる現象」になり、ミレーユに会ったことで「再現性のある現象」となった。

グランマーズの行ったことは一見「魔術」だが、実はエビデンスに基づいた再現性のある行為であり、そういう意味では科学に近い。その後バーバラと出会ったときは呪文を唱えることもなく水滴をぶっかけたら実体を得ることができたので、グランマーズの呪文は「そういう演出」だった可能性があるが。

 

 

突撃! ムドー城1

いろいろあって無事ラーの鏡を手に入れて、鏡の力でレイドック王がレイドック王妃になり、彼女とともにムドー城に突撃することになったテオくんたち。

ムドー城の詳細は覚えていなかったが、とにかくキツかった記憶だけが残っている。そしてやはりキツかった。アストロンベギラマを使う敵は何なんだよ。こんなレベルで出会っていい敵じゃないだろ。あとあの暗い地下室! スマホの操作性であれはキツい。細い道を歩いている間はエンカウントしない仕様(たぶん)に製作側の良心を感じたが、それくらいなら道をもうちょい太くしておいてくれんか。

ムドー自体は割とあっさり倒すことができた。バーバラが柔らかすぎてヒヤヒヤしたくらいかな。ルカニをかけるとスカラで打ち消そうとしてくるので、そうなるとムドーの攻撃回数が減るっていう。

でもこれ、現実の方のムドーの方がさらにキツかったはず。当時すべてのリソースを使い果たした末にボロッボロで辛勝した覚えがある。そしてムドー以降は転職できるようになって、そこから戦闘が急激に楽になっていった気がする。だからこそダーマ神殿は魔王にとって危険であり、封じるべきものだという話に説得力が出るんだけど。

ここまでほとんどノンストップでサクサク進めてきたが、さすがにレベリングが必要だ。お金も貯めて装備更新しなきゃ。

 

 

貴種流離譚

現実のレイドックで王子の噂を聞いて思い出したが、主人公は実は山奥の田舎者ではなく、レイドック王子だった。

この話、ちょっと不思議系の民話からスタートしたのだが、それが立身出世物語になり、実は貴種流離譚なのだった。物語のジャンル自体が二転三転するの、面白いよね。

たしかバーバラも大魔道士の末裔だとかいう設定があったはず。ドラクエの登場人物には貴種が多い。そのへんも古典らしさである。

 

さて、現在テオくんたち一行はゲントの村に来ている。

ゲント族もまた信仰心に篤く、チャモロは神託一発で仲間に加入した。即落ち2コマがすぎる。

上記の考察ブログで、ゲント族=人間になったホイミスライムの末裔説を読んでいたので、この町に来るのはとりわけわくわくした。この町のたんすの中から「とんがりぼうし」を発見してテンションがぶち上がる。ゲントの杖にはどれほどお世話になったことか。

これから船が手に入って、それから二度目のムドー討伐の流れかな。前半の山場だ。現在のわたしはムドーの恐ろしさを知っているので、十分にレベリングをして装備を揃えてから挑もう。社会人の余裕をムドーに見せつけてやるぜ。

 

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