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現代のペトルーシュカ「ザ・ザ・コルダのフェニキア計画」感想

素材は https://www.pixiv.net/artworks/86837154 より

先日、急に友から「この映画を一緒に見に行かないか」と誘われた。タイトルは「ザ・ザ・コルダのフェニキア計画」。

ひとまずトレイラーを検索してみたところ、開幕からストラヴィンスキーの「火の鳥」が流れ、続いて同じくストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」が流れ、同時に友から「ウェス・アンダーソン監督だよ」とのメッセージが届き、トレイラー再生から20秒で「行く!」と即答した。すぐにトレイラーは止めて、以降情報を入れずに映画館へ。

ストラヴィンスキーがお好きでまだ映画を見ていない方は、以降の文は読まなくていいので映画を見てください。ペトルーシュカ」のMVとして見るだけでもお金を払う価値はあるので。「火の鳥」のモチーフも何回も繰り返し出てきてよだれが出そうになるので。

(ていうか監督は「ペトルーシュカ」のMVが作りたくてこの映画を撮ったのでは? と半分くらい思っている)

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MV説は半分冗談として、「現代のペトルーシュカ」を語りたかったのかなという印象はかなりある。

今日は久々の映画ネタバレ感想だ。

帰り道に友と「あのモチーフは何だったんだろう?」「ラストシーンはどう解釈した?」と語り合うのがとても楽しい映画だった。

1回見たきりではとても全貌を把握できるとは言えないので、細部までは語れない表層的な話にはなるが、とても楽しかったので新鮮なうちに感想を書き残しておきたい。「ペトルーシュカ」をガンガンに流しながら書くぞ。

では以下ネタバレにつき、未視聴の方はお戻りください!

 

 

 

 

 

何をやっても面白いシチュエーション

ほぼ何も知らないまま映画館に行ったわけだが、開始30秒で「んっふwww」と笑ってしまい、そういえば「グランドブダペストホテル」もそういうノリだったわと思い出した。

そしてリーズルがメインキャラクターだと理解したときにはもう心をわしづかみにされた。富豪パパ×修道女の娘の組み合わせだけで、もう何をやっても絶対に面白いじゃろ。あとはもうそのふたりをいろんなシチュエーションに放り込むだけで話が面白くなるじゃろ。

敬虔な修道女のはずのリーズルが、マッハで世俗化していくところもめちゃくちゃ面白い。最初は化粧なんかしていなかったのに、秒で濃いメイクになり、パステルグリーンのタイツを履き、ナイフを持ち、ビールを飲み、パイプを吹かすようになる。

パパが豪華なナイフやパイプやロザリオを与えたりもするけど、そうじゃないのよ。パパが押しつけたわけじゃない。先にリーズルが自分からやってる。まあなんていうか、基本的には似た者親子なところがあるんだろうなと思わせてくれる。

明らかにあやしい昆虫学者ビョルンくんは、画面に映っているだけで笑わせてくれる。あの扱いの雑さがたまらん(パパからの扱いではなく、ストーリー構成全体からの扱いの軽さそのものがギャグ)。

大物俳優がバンバン出ているのに、どいつもこいつも全然原型をとどめていないメイクなのもまた笑わせてくれる。カンバーバッチさんとか、あのメイクでアップになるだけで笑える。あいつはどういう理屈で爆発したんだよ。

あとあのゲームっぽい物語構成も面白い。資金調達という大クエストのために、マップを回って小クエストをこなしていくあの感じが、すごくゲームっぽい。毎回出るリザルト画面がそれを加速させる。主人公がバンバン撃たれて死にかける割に、すぐリスポーンするのもゲームっぽい。お前はジャケットくんか。

天丼天丼アンド天丼の構成はわたしが絶対に笑っちゃうやつ。なぜか王子様が桜木花道(の元ネタのリック・バリーの方かな)だったのも笑った。

人によって作品に感じる面白さのポイントは全然違うと思われるが、わたしにとっての面白さを言語化するとこのあたりだろうか。

もちろん今作でも画面の色遣いや画面構成の妙(タイトルシークエンスが特に好き)、文字を多用する絵本的な画面作りは健在で、そのへんも見ているだけで目が幸せだし、しかもそれが何度も聴いた(演奏もしたことがある)ストラヴィンスキーのメロディとともに流れてくるのだから、マジでMVとしてだけ見ても幸せな作品なのだが。

 

 

現代のペトルーシュカ

ヌバルおじさんのところに向かうことになったあたりだろうか。ふと考えが降ってきた。これ、現代のペトルーシュカを描いたお話なのかな、と。というかこれだけ「ペトルーシュカ」を使っておいて、ストーリー上の意図がないわけないよな、と。中盤はずっと「ペトルーシュカ」をなぞるようなバッドエンドを想像していた。

最後まで見ると、バッドエンドを回避しようとするペトルーシュカのお話だったのかなという印象になった。

ペトルーシュカ」のあらすじをざっくり説明するとこんな感じ。

ペトルーシュカとは、人形の名前。ペトルーシュカバレリーナムーア人の人形が、魔法使いの魔法によって動きだす。ペトルーシュカバレリーナに恋をするが、バレリーナムーア人に夢中。ペトルーシュカムーア人に喧嘩を売るも、逆にボコられた上に最後はムーア人に殺されてしまう。めっちゃバッドエンドのお話。詳細はぐぐりたまえ(ベニチオ・デル・トロボイス)。

この映画にペトルーシュカの登場人物をあてはめると、ザ・ザ・コルダがペトルーシュカ、リーズルがバレリーナ、ビョルンがムーア人である。ザ・ザ・コルダはリーズルに執着するも、リーズルは彼に対して基本的には冷淡だ。そしてビョルン(まあここでは「ビョルン」としておこう)に惹かれていく。

ザ・ザ・コルダは物語開始時点で何度も命の危険に晒されている。そしてこのままいくと、あの世で娘に糾弾されるバッドエンド直行だろうという夢をみる。ついでに言えば、ペトルーシュカのように衆人環視の中でぶっ刺されて死亡のバッドエンドも全然あり得るくらい周囲から恨まれまくっている。

彼はこのバッドエンドを回避すべく、リーズルとの関係修復をはかり、同時に資金調達に励む。ある意味でザ・ザ・コルダは、「バッドエンドを見たあとの2周目プレイ」に近い状況だ。

ザ・ザ・コルダがこのような状況に置かれている原因は、自業自得な部分が相当あるにしても、親の影響がとても大きいことが彼の話の端々からわかる。彼の親こそが、ペトルーシュカの上位存在、魔法使いにあたる。

ペトルーシュカ」の物語は、ペトルーシュカの幽霊が現れて魔法使いを怖がらせ、魔法使いが逃げるところで終わる。この疑似親子関係もバッドエンドである。

一方、ザ・ザ・コルダの親との関係はどのような結末を見ただろうか。ここは見た人によって解釈がわかれるところかも。

ザ・ザ・コルダはリーズルとの関係修復を試みるなかで、自らが自分の親と同じことをしていると気づいたのかもしれない。

彼が自分の親を赦せたのかどうか、わたしは一度見ただけではわからなかった。が、赦せたかどうかはともかく、親との関係性にひとつ区切りをつけることができたのだろうとは感じた。最後のあの世シーンで、彼は自らの手で骨壺を高いところへとしまうことができたから。

フェニキア計画」のラストを見る限り、「あの世で娘に糾弾される」というバッドエンドだけは、一応回避できたように見える。その意味で、ザ・ザ・コルダは財産を失いつつもそちらの目的は達成できた、ように見える。

でも、映画を見た人にききたい。

あれってハッピーエンドだと思った?????

 

 

ハッピーエンドなわけねーだろ

映画を見たあとでいろいろ感想ブログなどを見てまわっていちばんびっくりしたのが、

「ザ・ザ・コルダは財産を失ったが、お金では買えない家族愛を手に入れたのでハッピーエンド」

という見方をしている人が多かったこと。

マジで!!?!?! あれってそんなハッピーエンドだったか!?

いや、もちろん製作側は「中にはハッピーエンドだと思って帰る客もいるだろうな」と想定しているはず。その見方は間違いではないし、そう思った人はその感想を大事にしてほしい。

でもここはわたしの個人ブログなのでわたしの思ったとおりに言わせてもらうと、そんなハッピーエンドなわけねーだろ!!! である。少なくとも「お金では買えない家族愛を手に入れた」みたいな単純なハッピーエンドではなくね?

レストラン閉店後の親子が囲むテーブルの上には、髑髏が乗っている。お屋敷のテーブルにもあったのと同じやつ。彼らの「団らん」の場所には今も常に死の気配がつきまとっている。メメント・モリ

髑髏は、彼によって死(あるいは不幸)に追いやられた人々の象徴と考えてもいい。彼が金を失おうとも、彼が恨まれていることには変わりがない。「ペトルーシュカ」にあてはめるならば、ここではザ・ザ・コルダが魔法使いであり、彼を恨む髑髏こそがペトルーシュカの幽霊である。

レストランは雨漏りが続いている。お屋敷と同じように。少なくともお屋敷時代には修理するくらいの金も人手もあっただろうに、ザ・ザ・コルダはそれをしなかった(修理するよう指示する場面だけはあったが、結局修理されたところは作中で描写されない)。雨漏り、すなわち「家に空いた穴」は、ザ・ザ・コルダの欠落の象徴である。

つまり、彼はラストシーンでも欠落したままなのだ。そしてそれを埋める気もない。埋める気がないのは、リーズルも同様である。

リーズルはレストラン閉店後、きっちりタイムカードを押して、労働時間に沿った給金をもらっている。これが親子団らんの姿に見える?????? 「問題のない親子関係とその団らんシーン」を描きたいなら、絶対にこうはならないだろ。そういうハッピーエンドを描きたいなら、ほかにもっと適切な描写があるだろ。

このシーンから読み取れるのは、ザ・ザ・コルダとリーズルは金で結びついた契約関係にあり、ふたりにとって大切なのは結局金であり、世俗的価値観であるということではないのか(当然「問題のない親子関係」でタイムカードをきっちり押して給金を出していることもあるだろうが、そんなシーンをこの映画のラストに持ってくる意味について言っている)。

その後のトランプシーンもずっと無言である。笑顔もない。繰り返すが、単純なハッピーエンドを描きたいなら、もっと適切な描写があるはずだ。単純なハッピーエンドなら、髑髏も雨漏りの描写も必要ないはずだ。

ザ・ザ・コルダが回避したのは、「あの世で娘に糾弾されるバッドエンド」だけである。わたしの印象では、ほかの部分は何ひとつ変わっていない。

(「そもそも娘からの糾弾エンド自体を回避できたか?」という意見ももちろんわかるが、わたしとしては「あの世で娘に糾弾されるバッドエンド」だけは回避できたのではないかと思っている。最後のあの世シーンでリーズルがザ・ザ・コルダと同じフロアを歩いていたことから。けどそのシーンも含めて、たしかリーズルは最後まで父親に笑顔を向けていなかったんじゃないかな。ザ・ザ・コルダ自身も娘から「本当に赦された」とは思っていないはず。「あの夢のとおりの糾弾だけは回避できた」くらいが妥当なところか)

何しろ彼自身が言っていたのだ。「自分で信じていないことでも心から信じたことにできる」的なことを(細かい言い回しは忘れた!)。

カトリックへの改宗だって、本心なわけがない(とはいえ「心から信じたことにできる」という特殊能力持ちなので、聖職者も自分自身もだませるのだろう)(というかあの世界には真に敬虔な者はひとりも出てこないので、誰も彼も真の信仰とかどうでもいいのだろう)。

そういうわけでわたしはめちゃくちゃ不穏なエンディングに感じた。

が、「単純なハッピーエンドではないならいったい何エンドなのか」という問いへのはっきりした答えは、わたしの中でもまだ出ていない。「そもそもはっきりと何エンドか説明できるような映画ではない」ということもできるかもしれないが。繰り返し見たら何らかの結論が出せたりするのだろうか。

今の時点でひとつ思いついたことがあるとすれば、こういうことになるだろうか。

ザ・ザ・コルダは「あの世で娘に糾弾されるバッドエンド」だけはとりあえず回避できた。だが、娘は証人のひとりにすぎない。「裁判官」であるところの「神」は、最終的にどう判断するだろうか。「神」とはすなわち、ここまでの物語を追ってきた視聴者のことである。

だから「あなた」が「ザ・ザ・コルダ」は改心したと判断するならば、彼は天国に行けるハッピーエンドを迎えることになる。

わたしが神なら「天国行き? ねーよ(ポイー)」になるし、ザ・ザ・コルダなら「ですよねー、ところで手榴弾をおひとつどうですか」くらいのノリで地獄に行くかもしれないと思っている。あんな夢を見て「悔い改め」た上で、結局欠落まみれな人なのだから。

なんかそういうマルチエンドだったんじゃないの、というこの感想もだいぶ雑なのだが。

あと、物語の外に視聴者の審判という役割を持たせることで、「グランドブダペストホテル」にもあった入れ子構造の再現にもなるなと思ったり。

 

そんなわけで見終わってからもあれこれ考えられる楽しい映画だった。

作中ずっと「んっふwww」の連続で楽しませてもらったし、ストラヴィンスキーの使い方にも楽しませてもらった(「ペトルーシュカ」以上に「火の鳥」の使い方が天才なんだよな)。

しかしわたしにとっていちばん面白かったのは、こんな奇妙な物語を、映画館であんな人数と共有できたという体験そのものかもしれない。困惑と笑いの詰まったあの空気はちょっと得難いものである。映画館で見られて本当によかった。

 

 

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