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「エクスペディション33」クリア後ネタバレ感想・考察

Merci beaucoup...

「エクスペディション33」、クリアしたー!!

エンディングを見てしばし横になり、ようやく起きる気力が沸いてきたのでこうして筆をとった(実際にはPCを立ち上げた)。

いいゲームだったな……。こんなにもコンセプトが明確で、設計思想がストーリーから風景のひとつひとつ、ゲームシステムにまで一貫して行きわたっているゲームは初めて遊んだかもしれない。

そのコンセプトとは、ネタバレ回避のために抽象度を上げて言うとすれば、すなわち Clair と Obscur ということになるのだろう。エンディングに至るまでそこは一貫していた。

とりあえず、クリア直後だからこそ言語化できる感想を残しておきたい。新鮮な感想はすぐにあの花びらのように霧散してしまうものだから。

では以下、エンディングまでのネタバレ感想!

初回記事はこちらから。

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彼らともお別れだ

愛のある人生 une vie à aimer

最初に書いておくと、わたしのエピローグは「愛のある人生」というタイトルだった。最後の選択肢によってエンディングが分岐するようである。 

「愛のある人生」というタイトルからピンときてフランス語でのタイトルを検索してみたところ、une vie à aimer らしい。やっぱり。アリシアの手紙のタイトルが une vie à rever(夢みる人生)だった。何かここにリンクがありそうなのだけど。

調べてみたところ、すでに多くの人がこれを根拠に「第3のエンディング:夢みる人生」があるのではないかと議論していた。でも今のところ実装はされていないみたい。

でもわたしは現状の clair と obscur のふたつのエンディングがある状態に満足している。どっちが clair でどっちが obscur なのかについては、議論が分かれるだろうけど。

ああでも、clair(明)と obscur(暗)だけではグレースケールの世界だから、そこに chroma(彩度)のエンディングを付け加えるのはアリかもしれない。アリシアの手紙にあったように、ふたつの家族の希望を両方かなえるような。

 

さて、この結末をどう受け止めるべきか。

その前に、わたしがなぜこの選択をしたかを書いておく。ゲーム的にはこっちルートに誘導している気はしたけど(最後の選択肢の前の場面からヴェルソ視点でヴェルソを操作することになるので)。

ルミエールに乗り込むまで、というか乗り込んでからも、ヴェルソがラスボスになるのではないかとずっと思っていた。少なくとも、キャンバスの破壊を止めてこの世界を存続させようと思うなら、最終的に対峙しなければならないのはルノワールよりもヴェルソだと思っていた。

だってヴェルソは、出会ったときから一貫してこの世界の消滅のために動いていたから。ACT 2クリア時には、母親を現実に帰して自分ひとりがこの世界で永遠に生きるのを受け入れているのかともちょっと思った。でもここまでの描写を見て、母親が現実に帰ったらルノワールがキャンバスを壊してこの世界を終わらせるだろうということは予想できていたとわかった。

リーチャークリア後にマエルが「抹消」とかいうスキルを覚えたことで、余計にヴェルソと対峙する可能性を考えた。マエルがその気になれば、ヴェルソも抹消できるのではないかと。

しかし、まさか自分がラスボスになってしまうなんてな……。俺が、俺こそがこの世界を抹消するラスボスだったんだ……。

人々を抹消するペイントレス現象から世界を救うためにルミエール港から旅立って、今度はあの港から上陸して道順を逆にたどって、最後は自らの手で世界を消してしまった。ホント、すごい話だったな……。

人生のいちばん辛かったことを共有してくれて、しかし亡くした夫を蘇らせる希望を抱いて戦ってきた親密度7シエルは、「はーマジこいつホンマに……まあしゃーない、こいつにとってはこれがベストだったんよな……」みたいな顔をして、無言で消えていった。最後に手を重ね合わせてくれるだけ、シエルはヴェルソに理解を示している(でも決して握手ではないんだよな)。

両親からの呪いと祝福をともに自分のものにして、自分のための時間について考えられるようになった親密度7ルネは、「こいつを信用した自分が愚かだった」みたいな顔をして、どっかり座ったまま消えていった。拒絶と諦観が入り混じったみたいな感じ。

いまだかつて、ともに旅をして親密度がMAXになった仲間たちにこんな表情で別れを告げるゲームがあっただろうか。これね、親密度がMAXだからこそ余計に意味のある演出だったと思う。

ふたりとも無言だったのが、このゲームの一貫した姿勢になってて好き。ふたりとも事がここまできた以上、心情をペラペラしゃべったり泣きわめいたりしない。大人だし。

でも自分が彼女たちの立場で、この世界はフィクションだから上位存在の都合により抹消されますと言われたら、納得できない旨をしゃべりまくるかもしれない。大人だけど。

ヴェルソはさあ、最初からこの結末を想定してたんだよね? 最初からキャンバスを壊してこの世界のすべてを終わらせることを目標にして、彼女たちに近づいたんだよね?

それでも彼女たちと言葉を交わして、心を通わせ合って、真の絆を築いてしまった。それ自体が悲劇でしょ。最初はこのミッションを達成するために必要なコミュニケーションだと割り切っていた部分もあったかもしれないけど、もし本当にそれだけだったら親密度7までいかないでしょ。

ヴェルソは自分の手ですべてを終わらせる覚悟を決めながら、同時に彼女たちのこれまでの人生を知ろうとしたし、彼女たちのこれからの人生を想った。それがヴェルソの生き方なんだよね? そんなヴェルソだったからこそ、自分の人生と引き換えにアリシアを助けたわけだ。

今までの遠征隊にはかかわろうとしなかったのも、今なら本当の理由がわかる。「きみたちを全員抹消するために、きみたちを利用します」「しかしきみたちのこれまでの人生とこれからの人生について語り合い、互いの理解を深めます」なんて、まっとうな神経なら絶対に避けたい。耐えられない。

こんなふうに言えるだけ、やはりヴェルソはマエルよりも大人だし、自分を客観視できている。そう、この家族は全員が「偽善者」で、やっていることは同じだ。誰もが自分の欲望にのみ忠実に行動している。

ルノワールとクレアにとっては、「家族を守る」ことこそが最大の望みだ。アリーンはヴェルソを亡くした悲しみに浸っていたい。少年ヴェルソは描き続けることに疲れ、描かれたヴェルソは生き続けることに疲れた。アリシアは現実で傷を負った状態ではなく、マエルとして絵の中で生きていきたい。

「誰もが自分勝手である」という意味において、この家族は誰もが対等な立場にある。だから、最後の選択肢もイーブンなのだ。イーブンだからこそ、プレイヤーが選ぶ意味がある。お前の欲望は何か、と問われているわけだ。

わたしはこの美しい世界がとても好きだったし、シエルが夫と再会できるといいなと思っていたし、ルネがヴェルソと一緒に演奏できる日が来るといいなと思っていた。この世界でずっと遊んでいたい。彼女たちに消えてほしくない。

でも、それと同時にヴェルソを終わらせたいと思った。

「終わらせなければならない」とも思った。「生者は死者に別れを告げて、現実世界で生きていくべきだ」とも思った。「実際のところ、アリシアが『あと少しだけ』ではなく一向に帰ってくる様子がなければルノワールはまた連れ戻しに来るのだろうし、マエルの主張は問題の先延ばしでしかない」とも思った。

プレイ中は実際にそう思ったのだが、しかしこの選択は「~しなければならない」とか「~するべきだ」とか、合理的な判断基準のもとに行うものではないよな、とスクショを見ながら考えたりした。これはあくまで身勝手な欲望と身勝手な欲望の対決で、そうであるならばプレイヤーも身勝手に選択してしまうのがいちばんしっくりくる。

ただ現実のアリーンの状態を見せられて、現実のアリシアも遠からずこうなるのを想像してしまうと、やっぱり終わらせたいと思ってしまった。というよりは、ヴェルソに現実の母親の状態と現実のアリシアの状態を想像しながらこの世界で永遠に生きるとかいう地獄を味わわせたくないと思ってしまった。

自分の作品が死後も残り続けることをこんなにも喜べないケースがあるだろうか。自分の死だけではなく、自分の描いた作品のせいで家族が崩壊していくなんて耐えられない。

あとやっぱり、わたしは「行きて帰りし物語」を支持しているところがある。始めた物語は、閉じられてほしい。「終わらない(実際には先延ばしの)物語」では満足できない体質なのかもしれない。

最後の選択の理由としては、そんな感じかなあ。

これね、わたしはもうエンドコンテンツに手を出せないかもしれない。コンティニューすれば最後のセーブからやり直せるのだろうけど、どの面下げて彼女たちの前に出られるの??? 申し訳なさすぎてもう会えないかもしれない。

もともと「一度閉じた物語を再度開く」ことはあまりしない(やるとしても年単位で時間があいてから)こともあり、今からもうひとつの選択肢を見る気にもなれない。本当にすまないと思っている。

 

少女が大人になるための通過儀礼

「明日は来る(ほんとにぃ?)」と思っていたら来なかった

前置きが長すぎんだろ!!!!

というわけで以下、このエンディングとこの物語をどう受け止めたかという話。

マエル/アリシアに注目すると、「少女が大人になるための通過儀礼」の物語だったわけだ。現実のアリシアの実年齢はわからないけど、たぶん16歳のマエルとそんなに変わらないだろう。まだ思春期と言っていい。

彼女の言動は「子ども」である。遠征隊に加わったのもルミエールから出たかったからだったし、兄の死を直視できないままだったし、自分が負った傷も受けとめきれなかったし、結局現実を拒否して絵の中で生きようとしていた。

しかしそんな彼女が、わたしのエピローグにおいては、ヴェルソの墓前に立っていた。家族とともに。少なくともヴェルソの死は受けとめて、前に進もうとしているように見えた。見たいものだけを見るのではなく、現実をあるがままに受けとめられるようになったなら、それは大人への一歩だ。

いわゆる「父殺し」は、少年が大人になる英雄譚の形式だが、ここではそれを踏襲している。文字通り、父親とも戦ったし。

最後の選択次第で彼女の成長はなかったことにもなりそうではあるが、この物語はやはり、マエルの成長を描いたものだろう。

ずっと不思議だったんだよね。この物語の主人公は明らかにヴェルソとマエルなのに、なぜ ACT 1はギュスターヴを主人公として始まったのかと。

今見ると、ギュスターヴのデザインはルノワールに似ている。ルノワールの若い頃は、ギュスターヴに近い感じだったのではないか。そして必然的に、ヴェルソにも少し似ている。髭面のブルネットってだけかもしれないけど。

でもたぶんマエルは、無意識のうちにルノワールとヴェルソに似た男性」を「お兄ちゃんでお父さん」として慕っていた。そんな「お兄ちゃんでお父さん」だった人は、マエルをかばって亡くなった。ヴェルソみたいに。

つまりマエルはギュスターヴの喪失を通して、疑似的にヴェルソの喪失をやりなおしている。これが、マエルの成長にとって必要なことだったんじゃないのか。

ギュスターヴが亡くなったあと遠征隊がそれでも進み続けることに、マエルは憤った。現実のアリシアも同じように思ったことがあったのではないか。

アリーンはアリシアに責任があると言って顔を合わせない。ルノワールはアリーンにかかりきりで顔を合わせない。クレアは作家対策で忙しくて顔を合わせない。アリシアはただ家族と悲しみを共有したかったのに、それができなかったのではないか。そしてそのことに憤りを感じながらも、誰にも言えなかったのではないか。家族とはろくに顔を合わせないし、話すことができなくなってしまったわけだし。

しかしマエルは、その憤りを口に出せた。結果として、ギュスターヴを自分の手で埋葬し、死者を悼む感情を仲間たちと共有できた。その経験こそ、アリシアに必要だったのでは。

ギュスターヴの死後、マエルは彼のジャーナルを引き継ぐ。「後に続く者たちのために」と口にしていた彼の姿勢を、マエルは見習おうとしていた。最初は感極まって何も書けなかったが、徐々にギュスターヴのことを書き残せるようになっていく。

これはマエルにとって「死者の遺志を継ぐ」という形で、家族の死を受容することにつながったのではないか。また彼女自身も「後に続く者たちのために」何かを書き残すことで、彼女自身が「後に続く者」を守るために「前に進む者」になったことを意味している。

 

もうひとつ彼女に必要だったのは、自分自身と向き合う経験だ。これは普通はもっと内省的な行為を意味するはずだが、マエルはリーチャーでアリシアと物理的に対話した。

描かれたアリシアは、厳密には本物のアリシアとは異なるわけだが、以前の記憶は共有しているのだろうし、基本的な考え方は似ているはずだ。となると、アリシアが「家族のもとへいかせて」と願ったことを、マエルも何らかの形で解釈することを促されたはずだ。少なくとも、エピローグの時点では。

 

あえてこういう言い方をしてみるけど、これって少女の家出物語なんだよね。

親に愛されている実感のない、コンプレックスを持つ少女が、反発心とか、自分にもできることがあると証明したいとか、そんな気持ちから「家出」をした。もっと言えば、しばらく家族と離れて過ごしたいという気持ちだってあったんじゃないか。

家出少女はたくさんの経験をして、成長して、家に戻ってきた。そういう話として捉えてもいいよね。家出したまま帰ってこないエンドもまあ、あり得る話だ。

 

ルネ、シエル、モノコとのデサンドル家の相似

どこまでが創作者、つまりヴェルソの意図したことなのかわからないけど、ルネ、シエル、モノコも少しずつデサンドル家的要素を備えている。

両親からの過大な期待に応えるために、それ以外の道が見えなくなっていたルネ。画家として期待されたがゆえに、音楽の道に進みたいことを言い出せなかったヴェルソと両親との関係に似ている。

前回も書いたけど、ヴェルソのこの言葉は自分自身に言い聞かせるものである。最後の選択だって、きっとそういうことだ。

そうなると、ヴェルソのアクソンの仮面攻撃がルネにはドンピシャで効いてしまうのもやむなしな気がしてくる。

シエルは配偶者と子どもを失ったという意味で、ルノワールの立場にいちばん近い。ルノワールの配偶者はまだ亡くなっていないが、そのままだと亡くなるところだったのだろうし、命は助かってもだいぶ精神がやられている。

そして、モノコだよ。モノコのしたこと(子どもの蘇生)(しかも蘇生した子どもはオリジナルとは微妙に違う)って、アリーンがやったのと同じじゃないの! とはいえモノコはアリーンと違って、自分の責務(ヴェルソに協力する/作家から家を守る)を放り出したりはしていない。また蘇生した子どもを故郷に預けたことから、子離れもちゃんとできているように見える。

モノコを描いたのは真ヴェルソだが、ルネとシエルは誰に描かれたんだろうな。生命を描くのはアリーンだろうか。もしかすると、今も描き続けていた少年ヴェルソの筆の影響もあったのかもしれない。

 

全部メタファーだった説

最後に、一応こういう解釈もあり得なくはないなーと思ったことを書いておく。

我々が見ていたゲーム画面はすべて現実のメタファーを具現化したものである。実際には人が絵に入ったり、手からピアノを出したりしているわけではない。

ヴェルソが亡くなったことから立ち直れずにいる家族は、それぞれにセラピーを必要としていた。アリーンは失意から部屋に引きこもり、息子がまだ生きているという空想の世界に生きた。ルノワールは彼女のケアにかかりきりになった。クレアは作家対策に奔走した。アリシアは孤独に悲しみに暮れたが、本を読んだり空想の世界に羽ばたいたりすることで徐々に立ち直った。飼い犬たちがアリシアに寄り添った。

ルノワールとクレアとアリシアは協力して、ヴェルソは亡くなったのだとアリーンにわかってもらうためにセラピーを行った。

そのセラピーの内容を、比喩的に描いたのが今作である。

あえてファンタジー抜きに考えるなら、そういう話だったことにしてもいいなあと思ったり。

この話は現実パートがほとんどないから、そういう想像もできてしまう。我々の見た現実パートも「現実パート」として描写された比喩で、本当はさらにその外側に「本当の現実世界」がある、とかね。

 

衝撃! 生身の肉体で結界を越える60歳!

約1カ月半、たっぷり楽しませてもらった。フランス語のお勉強をちょっとだけしているタイミングで出会えたのも運がよかったな。

体がサントラを求めている。ボーカルも含めてすごくよかった。でもどの曲も「心痛」というタイトルがしっくりきそうなやつばかりで、聞いているとぐったりしてしまうかもしれない。

ひとまず、本日のお話はここまで。

 

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