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言語は架け橋だが言語だけが架け橋ではない「プロジェクトヘイルメアリー」感想

映画「プロジェクトヘイルメアリー」をついに見てきた!

数年前から友に原作の方を「面白いから読んでくれ」と言われ続け、Kindle版のセール時に購入し、そこからしばらく積んでいたが、映画化が決定したときに「トレイラーがネタバレだからトレイラーが視界に入る前に原作を読め」と言われ、しばらく後回しにしていたがぼちぼち読み進め、前巻の後半から急に面白くなって後半は一気読みして、ようやく見に行くことができた。

わたしをネタバレから守ってくれたあらゆるものに感謝である。おかげで最高の読書体験と最高の映画体験ができた。

もし今からこの映画を見ようという方がいたら、こんな記事は読まずに今すぐ行ってほしい。原作を読んでから行ってもいいし、見た後で読むのもいい。原作の方が圧倒的に情報量が多くて、いろいろな試行錯誤や結論に至る過程が丁寧に説明されているので。逆に映画を見た後で原作を読んだら、たくさんの補足で理解が深まるかもしれない。

書籍だと残りのページ数がある種のネタバレになってしまう部分があるが(特にこの作品の場合、残りページ数がネタバレになり得る、というかなった)、映画館で見る場合は残り時間がどれくらいか、体感以外に知るすべがないので、そういう意味ではいきなり映画館に行った場合にこそ得られる体験もある(配信や円盤で見ると、シークバーで尺がわかってしまうんだよな)。

面白いのは、原作でも映画でも同じところで泣いてしまったのだけど、原作と映画では自分の受け取る刺激ポイントが違ったところだ。ここを言語化するのはとても難しい。書籍と映画は異なる媒体なのだから当然といえば当然なのだけど。でもあのとき感じたものが全部揮発してしまう前に、なんとかその欠片だけでもこの世にとどめておきたい。

というわけで以下、映画と原作両方のネタバレ感想。

 

 

 

 

原作グレースと映画グレースの違い

まずはこの話から。

原作グレースは饒舌だ。いや台詞が多いわけではない。グレースの一人称視点で話が進むため、彼がその時点で何を感じ、何を考察し、どのような過程を経てその行動に至ったのかが詳しく説明されている。しかもかなりユーモアを交えて。

特にアストロファージやタウメーバをめぐる実験シーンは、生物学者としてのグレースの思考を堪能できる見せ場だった。

が、映画でそれをやろうとするとモノローグまみれになってしまう。でもそれをやらずにどうやってグレースのキャラを初見客に提示するんだろう、というのは気になっていた。

そしたらやっぱりライアン・ゴズリングがすごかった。そして諸々の演出も素晴らしかった。表情、仕草、メイク、服装、音楽、画面の構図などで彼の内心が上手に盛り込まれていた。原作を読んだばかりのわたしは、場面ごとにグレースが何を考えているか逐一覚えている。だから余計に、演者や演出の工夫を拾って喜べたかもしれない。

特に地球にいた当時のグレースが抱えていた孤独感は、映画の方がうまく(あるいは強調して)表現されていた気がする。言葉で説明されるよりも、彼の表情や画面の構図の方が雄弁に語ってくれた。この作品が「孤独を抱えた未熟な少年が、人を本当に愛し信頼することを学んで大人になる」という、一種のイニシエーションの物語類型(あるいはボーイミーツガールの類型)(ロッキーは雌雄同体だが)にあてはまるのだということに、わたしは映画を見て初めて気づいた。

ちなみにロッキーの方も、原作での印象よりも愛らしさ・うざさが増していた気がする。仕草が視覚的に入ってくるとだいぶ印象が上書きされるところがある。あのバタバタ感やあの発声も、原作での印象を上回った。

せっかく音声的表現が可能な映画という媒体なのだから、ロッキーの発声ネタで一笑いとりにくるだろうなとは思っていたが、うまいことやってくれたもんだ。ロッキーとグレースとエイドリアンの名前はほんと笑った(映画館でもクスクス笑い声が起こった)。

 

 

言語コミュニケーション

わたしに自然科学分野の知識が足りていないせいもあり、あとそもそもSFというジャンルに不慣れなため、前巻の序盤はだいぶ読むのに時間がかかった。

ひとつずつ事情が明らかになっていく展開は面白いのだが、「どうなっちゃうのかなー」以上の興味は持てずにいた。

あと「オデッセイ」のときも思ったのだが、この原作者さんが光属性すぎて、読者を絶望に突き落とすような悲劇的結末は起こらないだろうなという妙な安心感もあった。そういう意味でのハラハラ感はなかった。だから興味の中心は「どうやって」この問題を解決するのかに向いていた。

それが一気にひっくり返ったのは、ロッキーとのコミュニケーションが始まったときだ。

原作だと、まずロッキーが人間の声を聴いて人間の可聴音域で返事をしてくれたことに、グレースは驚いている。このあたりが、その後のロッキーは光が感知できないことの伏線として効いてくる(人間にとっての可聴音域や可視光線が、全生物にとっての当たり前ではないことを示してくれている)。

で、どうすれば言語的共通点が不明な知的生命体とコミュニケーションをとれるのか。互いに互いが高い水準の科学的知識を持っていることは前提にできる。

最初は時計を使って数字の理解から。面白い! グレースは共通言語としてまず時間の単位、それから距離と体積の共通言語を得た。本当に面白い。

これに比べて、人間同士の語学教育はなんと簡単なことか。大体語学の最初は挨拶から入るものだが、それは人類には「挨拶」あるいは「礼儀」という共通の習慣が存在しするという前提を共有しているからこそだ。そういう前提が全部ない場合、何から始めればいいのかという問いのひとつの答えがこれだった。もちろん、これは互いに母星の危機をなんとかするためにこの場にいるという前提だけが共有されているという、それはそれで特殊なケースなんだけど。

たぶんその次か、それと並行して疑問詞の共有が進んだと思われる。けどどうやったんだろうな。原作でもそこはカットされていた。

興味深いのは彼らの使う動詞である。人間が初修外国語として学ぶ語彙にかなり近かった。「わかる」「する」「作る」「尋ねる」などは、大学一年目の第二外国語ならどの言語でも身につけるものではないだろうか(英語を学んだ記憶は遠すぎて、どのへんの語彙から入ったか覚えてない。たぶん名詞からだったけど)。「食べる」「寝る」がいったん後回しになるのも面白かった。優先順位があるよね。

ただしまったく無邪気に、何の注釈もなく、ロッキーの言語にも be 動詞が存在していること前提で話が進むのだけは、日本語話者として違和感があった。be 動詞はかなり難しい概念だ。「存在する」という意味と、「左辺と右辺がイコールの関係である」という意味があり、これが同じ単語で(しかも活用形がまったく原形をとどめない)表現されていることをノーヒントで理解し、使い方を区別することはかなり難し……

と思ったが、「存在する」の意味だけわかっていれば、コミュニケーション自体は成り立つのか? たとえば This is heavy. と言った場合、「これは重いが存在する」と受け取ったとして、「要は『これは重いです』ってことか」と脳内変換することは可能かもしれない。人称変化が語尾変化どころではない上に種類が多すぎで混乱を招きそうだが(be の意味を共有できたとして、am も are も is も同じ意味だなんてすぐに理解できるか?)、そこはなんとか人称代名詞とセットで覚えてもらうことにして(でもロッキーは動詞の人称変化をしていないので、そこの概念の理解が難しい気がする)。

普通の外国語学習の場合、初期の段階でまず食べ物の名前を覚える。文房具や教室にあるものの名前も。数詞や、暦を表す名詞、身につけるものの名前、職業名、家族を表す名詞なども初期に覚えるものだ。

が、グレースとロッキーがまず共有した名詞は、元素、星の名前、アストロファージなど科学的なものが中心だ。このシチュエーションなら当たり前なのだけど、このことがわたしには本当に面白かった。Amaze, amaze, amaze!! コミュニケーションの必要性はすべての壁を超える。

ロッキーが疑問文の最後に Question? をつけるのが大いなる萌えポイントであることは、原作および映画を経験された方なら異議はないと思うが、これはもしかしてグレースの「誤訳」かもしれない。日本語でいうところの「~ですか?」の「か」みたいな単語(中国語でも文末に添えて疑問文を作る単語があるらしい)を、グレースが Question と解釈して入力したためにこうなったのではないかと。英語には「か」にあたる単語がないので。

わたしはSF小説を読みながら、あるいはSF映画を見ながら、ずっとこういうことを考え続けている人間なので、中盤以降はものすごく熱中して読んだ。

彼らがどういう順番でどういう語彙を獲得したのか、本当は全部知りたい。原作では特に、徐々に滑らかになっていくコミュニケーションの段階が丁寧に描かれていた。最後のシーンではロッキーの言葉もものすごく流暢になってるのを見てぼろぼろに泣いた。

 

 

非言語コミュニケーション

わたしがいかに「ことば」というものを愛しているかは多少なりとも伝わったことにして、本題に入る。

原作でも映画でもいちばん心に響いたのは、言語コミュニケーションよりもむしろ非言語コミュニケーションだった。

原作では、グレースとロッキーのファーストコンタクトにおける非言語コミュニケーションが、映画よりもさらに丁寧に描写されていた。

ヘイルメアリーの速度にブリップAが合わせたこと。グレースがシリンダーを受け取れるように、ロッキー側で速度や投げる方向を調整したこと。ヘイルメアリーの遠心分離機が重力を生むために回転するのを見て、ブリップAも回転したこと。グレースがシリンダーを受けとって手を振ったこと。ロッキーの操作する機械が同じように手を振ったこと。ロッキーの送ってきたシリンダーの中身の模型。

全部が愛おしい

互いに正体不明、目的不明、意図不明の状態で、しかも文化や言語体系どころか生命形態もまったく異なるという前提で、どうやって互いに敵意がないこと、友好的にふるまいたいと思っていることを理解してもらえるかを、互いに全力で考えている。

どちらも自分の種を守るためという合理的な目的もある。だけどそこには明らかに知的興奮があって(グレースの知的興奮は原作で思いきり表現されていたけど、ロッキーの方も興奮していたはず)、相手のすべてに対する興味があった。

言語コミュニケーション以前の段階に、これだけ非言語コミュニケーションが用意されている。SF作品だからこそ描けるコミュニケーションだ。だとすればSFというのは、自然科学よりもむしろはるかに人文科学の真髄を楽しむものなのかもしれない。

人間とは何か。意思とは何か。意思と意思はどうやって伝達されるか。友好的とはどういう状態か。エリディアンという「異質なもの」を通して、我々は人文科学の本質を見ることができる。

ロッキーは、自分に敵意がないことを示すために、そして自分からの親愛を示すために、徹底して「模倣」を行った。なんて美しいんだろう。「模倣」は、相手への信頼がなければ成立しない。相手が自分に対して友好的な仕草をしたのだという前提、つまり相手が自分に対して攻撃や威嚇、侮辱などをしていないという前提がなければこうはならない。あの「模倣」は、相手への全面的な信頼を示している。グレースもそれが理解できているからこそ、次の段階へとコミュニケーションを進めることができた。

映画だと、その描写はふたりの別れのシーンで顕著だった。原作では、ふたりの別れは結構あっさりだった(それでも泣いてしまったけど)。

映画のグレースは、ロッキーと別れるときにいろいろなジェスチャーを見せた。きっとこれまでの日々の中でやりあったジェスチャーもあっただろう。明らかにアメリカ文化における「別れのジェスチャー」ではないものもあった。ロッキーはどれが「別れのジェスチャー」なのかわからない(これまでにある程度教わっていた可能性はある)。でも全部模倣してくれた。全部。あれを見て、あのシーンを思い出している今も、号泣してしまった。

グレースの別れがたい気持ち、それにロッキーからグレースへの全面的な信頼があのシーンに詰まっていて、ちょっとユーモラスなシーンなのにめちゃくちゃ泣いた。

相手の文化にわからない部分があるなら、まずは素直に模倣する。それが相手に対する信頼を示すことになる。それが何よりも強い架け橋になる。シンプルだけど力強いメッセージ。

そしてグレースは最後にもちろん、「正しい別れのジェスチャー」もやった。それが「正しい別れのジェスチャー」だと、ロッキーもちゃんとわかっていたはず。

言葉じゃない。言葉はたしかに彼らをつないだけど、最初と最後は非言語だった。異文化理解にとって大事なのは知識だけじゃない。態度と、生き方だ。

映画っていいなと思うシーンはたくさんあったけど、このシーンがいちばんよかった。あれを小説でやったら冗長すぎる。「言葉はいらない」という場面を描くのには、映画は最適なメディアかもしれない。

あとやっぱり「フィストバンプ」と「ハグ」の使い方もよかったな(サムズアップがうまくいかないやつも)。限られた時間の中で効果的に使われていた。たぶんわたしがフィストバンプ文化圏、ハグ文化圏に生きていたら、もっと感じるものがあっただろう。我々はアメリカ人が感じるのと同じには、あのシーンを理解できない。でもそこは知識で補えばいい。そこはむしろ、日本人はロッキーと同じ立場だと言ってもいい。

我々にとって「洋画」というジャンルは、その時点で多少なりとも「越境」を意味している。グレースがロッキーを理解するのと、日本人がグレースを理解するのには、規模は違っても同種の「越境」がある。そういう意味で、非アメリカ人がこの作品に触れるのは、多層構造的でもある。

 

 

その後

原作では、ソル(我々の太陽)がもとの温度に戻ったという報告まで描かれていたから、地球が救われたことは間違いない。

その後、グレースはどうなっただろうか、質問? どういう選択をしただろうか、質問?

わたしは、グレースはあのままエリドで生きていきそうな印象を抱いている。グレースには、地球に帰って会うべき人がいない。映画だとストラットとなんかいい雰囲気に見えたが(原作を先に読んでいると、映画ストラットはだいぶ解釈違いだった)、そのストラットがグレースをミッションに送ることを強制した。

グレースとしてはストラットに裏切られた気持ちだっただろう。ストラットはグレースよりも人類全体をとったというだけの話だとわかっていても。地球に帰ったとしても、年老いたストラットに文句を言うくらいのことしかすることがない。

原作の饒舌なグレースも、地球に帰ったら何をしたいかについてはまったく具体性がなかった。ストラットを一発殴りたいくらいじゃなかったかな。あとは「ヒーローになる」くらいで。

「ヒーローになる」なら、エリドでもう叶ってるのよね。

ただ、グレースがエリディアンの力を借りて、地球にメッセージを送るくらいはありえるのではないかと思っている。人ではなく録画メディアを送るだけなら、アストロファージエネルギーを使って、ヘイルメアリーよりもさらに速く飛ばせるのではないか。

グレースの教え子たち(毎年数十人か、あるいは複数クラスを持っていたとして、数百人か)のどれくらいがまだ生き残っているのかはわからない。でも何人かは生存してるんじゃないか。彼らが「グレース先生」からのメッセージを受けとって、希望を持って生きていってくれたらいいと思う。

一方、グレースの教え子のエリディアンたちが、グレースの死後もエリドの宇宙物理学を発展させていくのはほぼ確実だ。星を救った英雄は、子どもたちの本物のヒーローであり、憧れの的のはず。たぶん映画化もされる。そしてどの部分を端折って映画化するかで争いが起こる。グレースの声をどう再現するかで技術革新が起こる。

 

いろいろな意味で明るい未来を信じさせてくれる、amaze, amaze, amaze! な作品だった。

ちなみにわたしは原作の読書と並行して「ぽこあポケモン」を進めており、ちょうど先日エンディングを見たのだが、これが「プロジェクトヘイルメアリー」を連想させる話だった。いや全然違う話ではあるのだけど、滅びゆく地球をどうするかというプロットとか、人間と人外との信頼関係とか、後味とかがかなり近いなって。あと「ぽこあポケモン」における言語(文字媒体)の扱いも面白い。

短期間のうちに楽しいSF作品に複数触れることができ、しかも両方を並行して読み進めたおかげで、得難い経験ができた。このタイミングにも感謝。Good, good, good!

 

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