突然だが、現在視聴環境のある方はこの動画を再生してみてもらえまいか。
ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」という曲だ。
1905年、サンクトペテルブルクで行われた民衆のデモに対して軍が発砲した「血の日曜日事件」を映画的に描いた作品である。
「ゲームオブスローンズ」8-5を見ながら、わたしはこの曲のことを思い出していた。この曲は、8-5とそっくりな構成を持つ。全4楽章で、
1楽章「宮殿前広場」→帝政ロシアの圧政、虐殺前夜の空気
2楽章「1月9日」→民衆のデモと軍の発砲、虐殺と死体の描写
3楽章「永遠の記憶」→レクイエム
4楽章「警鐘」→作曲当時は帝政ロシアへの警鐘とされたが、ショスタコーヴィチの本心ではロシア共産党に対する警鐘だったのではないかとも言われている。作曲されたのは1957年であり、当時はそんなことをおおっぴらに言えば秒で粛清される時代だった。ショスタコーヴィチの「本心」については謎が多く、彼のほかの作品についてもまだ解明されていない部分が多い。
こんな展開。
この曲でいちばん有名なのはやはり2楽章。27:30くらいからの虐殺シーンと、その後動く者がいなくなった広場で延々と死体を撮るカメラ……みたいなシーンが凄まじい。
わたしも今これを書きながら流しているので、可能な方はぜひこれを流しながら読んでみてほしい。
ちなみにタコ11といえば、聴いただけで寿命が縮みそうなムラヴィンスキー御大の録音が最高で、あとはヤルヴィやゲルギエフも過激で好きなのだが、残念ながらつべに上がっているのは大体違法アップロードである。
以下、ネタバレあり(ここまでですでにだいぶネタバレである)。
ストームボーン式問題解決法
「またかよ!」と思われそうだが、ごめん、またデナーリスの話なんだ。まだ語り足りないんだ。
前の記事でも語ったとおり、デナーリスはドラゴンを手に入れて以来、問題解決の手段をすべてドラゴンに頼ってきた。
問題の発生源を焼けば何もかも解決! 汚物は消毒だ~!!
今まではそれでうまくいったし、誰もそれを本気で止めなかった。たとえばジョラーさんやミッサンディが、彼女を本気で止めたことがあっただろうか? ティリオンもヴァリスも本気で止めてはいない。彼らは結局、最終的にはクイーンの意志を尊重してきた。それでどうして最後だけは彼女の暴走を止められるなどと思えようか。
虐殺行為は全部、デナーリスの成功体験になった。おそらくそれまで一度もろくな成功体験などなかった「少女」にとって、それがどれほどの意味を持つかは想像に難くない。
そういう流れがあった後に、である。
ウェスタロスに来たデナーリスは最大の問題にぶちあたる。誰も彼女を愛さない。北も南も、身分の上も下も彼女に見向きもしない。向けられるのはドラゴンへの恐怖だけ。
確かにジョンは彼女を愛してくれた。でも彼女にとって結局、愛はどれくらいの価値を持つものなのだろうか。
ドロゴからの愛の意味は大きかった。彼女に初めて自己肯定感を与えてくれた。でも彼を失って、彼女は強くなった。ダーリオ・ナハリスは捨てられた。ダーリオを捨ててウェスタロスに来た彼女は、さらに凶悪になった。
ではジョンからの愛は? 玉座のためなら捨てられる程度のものではないかというのが、これまでのデナーリス描写から得たわたしの印象だ。そしてジョンを捨てれば、彼女はさらに凶悪になる。
今のデナーリスが望んでいるものは、ひとりからの真摯な愛よりもすべての民からの愛ではないのか。
「多くの人々から愛されていても、自分が真に愛するひとりからの愛が得られないなら意味がない」みたいなキャラは割とありふれている。その対極にいるのがデナーリスであるというのがわたしの理解だ。
そんなふうに出来上がった彼女なのに、ウェスタロスでは誰も彼女を愛さない。大問題である。
で、彼女の知る問題解決法は、問題の発生源を全部焼くこと。
自分を愛さない者すべてを焼けば問題解決である。
鐘が鳴ったときの彼女はこんなふうに順序だってものを考えてはいなかっただろうけれど、根底にはこういう思考があったのではないかと思っている。
焼けない自分にだけは「問題」がない、くらいまで思っているかもしれない。ナイトキングさんのことを焼けなかったことは、そう考えると深刻なアイデンティティクライシスをもたらしてもおかしくなかった。
この理屈でいくと、デナーリスを裏切ったジョンもティリオンも、次回燃やされてしまうことになる。もともとデナーリス、ジョン、サーセイは全員死ぬとは思っていたが、ティリオンまで死ぬだろうか……?
The Final Episode.
— Game of Thrones (@GameOfThrones) May 14, 2019
This Sunday at 9PM. #GameofThrones pic.twitter.com/kwVqjuG4fV
予告では、デナーリスの表情がいっさい出ない。
今、彼女はどんな表情をしているのだろう。勝ってにこにこ? クイーンとして人前に出るときのあの顔? それとも怒りが収まらない? それとも人がいっぱい死んで悲しい? そんなわけないか~。
ジョンが本気でデナーリスを止めようとすれば(今更遅いと言われそうだが、今の彼女は「やっぱ北も焼くわ」と言ってもおかしくないし、そうなればさすがにジョンも本気で止めるのではないか)、彼女はジョンに殺意を向けるだろう。
ジョンがドラゴンを殺し(そのために生き返った)、デナーリスがジョンを殺し(サム→ジョラーと渡ったハーツベインで?)、アリアがデナーリスを殺す(ジョンからもらったニードルで)という流れはありえるだろう。あまりにも素直すぎてまだ捻りがあるようにも思うが。
「視聴者」はいつデナーリスに殺されたか
前の記事に対して「序盤のドラカリスは感情移入できない相手ばかりだったからな〜」という感想がつくのを何度か見た。
それ、それよ。その感情を、わたしはもっともっと、もっともっともっと直視したい。
「感情移入できない側」に「感情移入できる側」が行う虐殺行為は気持ちいいということを、人類はもっとはっきり自覚すべき。歴史上の虐殺って全部「そういうもの」だったはず。は~うざいやつが黙ってすっきりしたわ~って思いながら殺していたこと、その行為を大勢が容認、あるいは賞賛していたこと、自分の中にそれと同じ感情があることを自覚するべきだ。
デナーリスに殺された親方連中だって現代人の価値観とは異なるけど、彼らはあの時代あの場所の法、社会規範に基づいてそれなりにまっとうに日々の営みを続けていた人たちだ。
「価値観の異なる相手」が苦しんで死ぬのを見て、みんな胸がすっとした。まるっきり、異教徒を殺しに行く十字軍メンタルである。その爽快だった感覚を忘れたらダメだと思う。「デナーリス怖い」で終わったらダメだと思う。
わたしは批判がしたいんじゃない。反省を促したいわけでもない。
ただ、自覚していた方がいいとは思っている。
だって人間はそういうものだから。
わたしはそのことを繰り返し、このブログで書いてきた。たとえば2017年にはダンガンロンパV3の感想でこう書いている(ちなみにこの作品の結末も賛否両論で、発売当初は界隈が阿鼻叫喚であった。詳しく書くとネタバレになるが、8-5とほとんど同じ構造を、じっくりと何倍もわかりやすい形でゲームにしたのがダンガンロンパV3である)。
わたしは、人が救いのない形で死んでいく様子を、人同士の疑心暗鬼と裏切りを、フィクションの壁一枚隔てただけで、エンターテイメントとして楽しく消費してしまえる悪趣味きわまりない人間だ(このブログのカテゴリ一覧を見ればそれがよくわかると思う)。このゲームはそんなわたしの欲求をたっぷり満たしてくれた。
このブログに来る人のほとんどが、わたしと同種の人間だと思う。
GoTが終わった後も、「人が救いのない形で死んでいく様子を、人同士の疑心暗鬼と裏切りを、フィクションの壁一枚隔てただけで、エンターテイメントとして楽しく消費」し続けるだろう。それは全然悪いことではない。人生を豊かにしてくれる行為だ。
でも自覚はしておいた方がいいと思うのだ。
我々はとっくに闇堕ちしている。
一緒に番組を見ていた友人はこう言った。
「今自分を当てはめてS8の描写がこわいと言っている人をみるとどうしても『よく生き残ってこられましたね…』と思ってしまう」と。本当にその通りだ。
我々は序盤でデナーリスにドラカリスされる側の人間だ。
衣食住は足りているし、なんといっても「ゲームオブスローンズ」の視聴環境がある。しかも人がバタバタ死んでいくドラマを喜んで見ている。
前の記事で、わたしはデナーリスが自身の行動を「悪行」と認識してこなかったことを指摘した。悪の自覚がない悪。わたしはそれが苦手だ。
これからもわたしは残虐なエンターテイメントを楽しく消費していくし、これからも面白い作品ができるといいと思っているけれど、同時にその感情の意味を自覚していたい。
「ゲームオブスローンズ」が鳴らした「警鐘」の意味のひとつはそれではないだろうか。
(今まさにショスタコの「警鐘」を聴きながら)
(ちなみに8-5タイトルである "Bell" には「発情期の雄ジカの鳴き声」という意味があるらしい。バラシオンじゃねーか! あの鹿の人形はシリーンとバラシオンのリフレインだと思っていたが、タイトルにもバラシオンの暗示があったとは)