本日も前回の続きで「十三機兵防衛圏」のネタバレキャラ語り。
わたしのクリアした順に、
緒方→冬坂→東雲→鞍部→網口→如月→三浦→薬師寺→鷹宮→関ケ原→南→比治山→郷登
さらにそのあと沖野→鞍部玉緒
の並びで語っていくよ!
前回までの記事はこちら!
前回ユキちゃんまでいったので、今日は瑛くんからだ。
以下、エンディングまでのネタバレ注意!
関ケ原瑛
瑛くん好きだったんだよな。何がだろう、声かな?
プロローグの時点で記憶がない、目の前には死体(しかも知ってる人の死体)といくつかの手がかり、そして過去の自分からのメッセージ。導入としての魅力なら瑛くんがぶっちぎりだ。
瑛くんのプロローグは全体の時系列から見ると最後の方で、そこから過去を少しずつ取り戻していく構成になっている。鞍部くんも同じか。
瑛くんのプロットの元ネタは映画「トータルリコール」だという話を方々で見たので、クリア後にさっそく見てみた。1990年版と、リメイクされた2012年版と続けて。
1990年版の方は、もしもアーノルド・シュワルツェネッガーが火星に行ったらという感じの大味にもほどがあるSFアクションだったが、ストーリーが二転三転するところは面白く、やりたいことは伝わってきた。
2012年版の方は、コリン・ファレルがアクションヒーローをやっているのが新鮮で(わたしの知るコリン・ファレルは「ファンタスティックビースト」と「TRUE DETECTIVE」くらいなので)、こっちの方がセリフまわしひとつとっても繊細で洗練されていた。あと火星には行かない。が、そこかしこに1990年版へのオマージュが見られ、1990年版→2012年版の順で見たのは正解であった。
ストーリー自体はほぼ同じなのだが、瑛くんの元ネタは2012年版の方だな! という印象だ。いや瑛くんのシュっとした感じはシュワルツェネッガーと結びつかなくない? 物語への導入のしかた、過去の自分からのメッセージ、そして過去の自分との決別、何よりも記憶がない、自分のことがわからないということへの苦悩が、瑛くん像と結びつく。
2023年1月5日現在、U-NEXTだと「トータルリコール」1990年版と2012年版は両方配信されているので、使える人は一気見できる。
それで、それでだ。
瑛くんのシナリオにおけるイオリちゃんは、完全に「トータルリコール」におけるメリーナなわけだ。つまり、SFアクション映画におけるちょっとミステリアスなヒロイン枠である。
しかしイオリちゃん視点でこの物語を見ると、完全に80年代の少女漫画なわけだ。ここが「十三機兵防衛圏」の面白さ、システムの作りの巧さなんだなと、映画を見て改めて思った。「トータルリコール」のプロットを使って少女漫画を作ろう! とは普通思わんやろ……。
瑛くんは制服こそ着ているものの学校生活は送っておらず、ひたすらハードなサスペンス映画調だった。過去の自分の記憶を追っていく構成で、しかも過去の自分の言動が必ずしも一貫していない(裏切りや心変わりがある)せいでひたすら複雑である。
ただ、わたしは「トータルリコール」を見たことで瑛くんのプロットがすっきり理解できた気がした。あまり深く言うと映画のネタバレになるので避けるが、これは「過去の自分との決別」の物語だ。
自分が何者であろうと、たとえ目の前にいる自分に好意を寄せてくれている女の子を殺しに来た暗殺者であろうと(井田に唆された瑛くんはイージス作戦の阻止のために動いていたことを考えると、森村の記憶を移植される可能性のあるイオリちゃんも暗殺対象だったことに)、クローン元の自分が自分に好意を寄せてくれている女の子のクローン元を殺した暗殺者であろうと、今の自分は「そうではない」し、目の前にいる女の子を好きになってもいいし、彼女と彼女の愛する町を守るために戦うことを選んでもいい。
そういうお話だったということで納得した。
南奈津乃
こんなに好感度の高い女の子がいるか!?
健康的な陸上部員にSFオタクという属性を足すことでこんなに魅力的なキャラクターができるのか。
わたしは「プロジェクトブルーブック」というアメリカのドラマをずっと追っていたので(記事もたくさん書いた)、なっちゃんが早口で語るUFO用語は温かい目で見守ることができた。
なっちゃんのストーリーは「ET」がベースになっていると思われるが、わたしはオマージュネタは知っているものの「ET」本家を見ていないので深くは語れない。
しかしBJ=ミウラであることをふまえると、なっちゃんの「未知との遭遇」は実はボーイミーツガールものの一種である。一気に「ぼくの地球を守って」になっていくプロットが面白かった(「ぼく地球」は「十三機兵防衛圏」全体プロットの元ネタでもあるのかな)。
また彼女はこの物語が「タイムトラベルもの」であるというミスリードの発端になる人物でもある。さらには「ここは地球ではない」という情報が最初に提示されるのも(わたしがプレイした順番においては)なっちゃんのシナリオであった。
未知との遭遇=ボーイミーツガールからのアイデンティティクライシス、それらを乗り越えた先の自己の確立、そしてBJというある種の「保護者」を失うことによる独り立ち。なっちゃんのストーリーをそんなふうにまとめると、意外とシンプルな青春ドラマだ。
というかこのゲーム全体が、少年少女がポッドという揺りかごを、怪獣との戦いという通過儀礼を経て自らの意思で脱して、未来に向かって独り立ちしていくという成長を描いた物語なんだよな。
比治山隆俊
この男は間違いなく、ゲームシナリオのバランスをとる上でのMVPだ。
比治山くんが比治山くんでなければ、この物語は全体的にもっとしんどくシビアな話になっていたに違いない。
こんなにも冒頭からは想像できないキャラになっていこうとは。
比治山シナリオをクリアしたのは最後から2番目。終盤も終盤になってから手をつけたキャラだった。ほかのキャラクターたちが世界の謎に迫り、覚悟を決めて機兵を起動している中、こいつがしていることといえば、落ちているお金を拾って焼きそばパンを買うことだ。何なんだよお前は!!?
しかし1945年の価値観のまま沖野司に出会った比治山を襲ったアイデンティティクライシスは、なっちゃんを襲った「自分たちこそが宇宙人かもしれない」というアイデンティティクライシスに匹敵するものだったに違いない。
自分たちはアメリカとの戦争に勝てず、祖国を守れなかった。しかし祖国は自分の不在とは関係なく復興、再建、発展していた(焼きそばパンは比治山にとって再建された日本の象徴であり、未知の世界の象徴でもある)。きわめつけに、かよわい婦女子を守るべしとされた健全な日本男児たる自分が、女装した男性に抗えない魅力を感じてしまう。とんでもないアイデンティティクライシスである。
しかし彼はそのあたりの相当に深刻な受難を、飄々と……というよりは喜々として受け入れる。
このへんが、なっちゃんとも瑛くんとも三浦くんとも違う彼のキャラだ。
ひょっとしたら彼の遺伝子、あるいは「心」は、沖野司(堂路桐子)に出会ったときに救済されていたのかもしれない。異なるセクターに配置されたふたりは、ここまでのどのループでも出会っていなかった可能性が高い。
守るべき人にやっと会えたことこそが比治山くんにとっての「救済」で、あとはすべて「エピローグ」だった気すらする。
しかし、守れてないんだよなあ……。沖野くん、死んでるからね。仮想世界におけるアバターが、だけど。もしかして沖野の死のシーンは、クローン元の沖野の死の再現だったりするのだろうか。
「十三機兵防衛圏」というタイトルなのに、崩壊編をプレイしてみると沖野くんを入れて「14人いる!」というのも、この物語の大きな謎のひとつだった(「11人いる!」もこの物語の元ネタのひとつなんだろうな。あとこのタイトルは「十五少年漂流記」からとったものではないかと思っている。実際には十五少年少女漂流記だったというオチも含めてよくできている)。
崩壊編での沖野くんが比治山くんとしか会話していないということに気づいてびっくりしたし、これは崩壊編を最初からやりなおして確かめなければならないと思っている。
目覚めてからの現実世界では、今度こそ愛する人を守れる自分になってほしい。
2188年の技術であれば、男性同士のカップルが子どもをつくるくらいは余裕でしょ。むしろ沖野司が、その手のプロジェクトで生まれたデザイナーベイビーっぽい。
比治山くんは女の子のことも好きそうなので性的嗜好がどうなっているのか気になるのだが、性的嗜好を本人以外がどうこう言ったり規定の枠にあてはめて勝手に診断したりは2188年までいかなくても既に令和仕草ではないので、「彼はこうなんだ」でいいかなと思っている。
郷登蓮也
いや彼こそがこの結末に至るためのMVPでしょ(MVP多すぎん?)。
「十三機兵防衛圏」がゲームとして突出した部分のひとつが、「ラスボスを倒さない」ところにあるのは間違いない。
崩壊編には「このボスを倒せば終わり」というステージもあった。だが最後のステージは延々わき続ける敵を倒し続ける、完全なタワーディフェンスである。「ラスボス」としての怪獣は存在しない。
このゲームにおけるラスボス、黒幕、この世界の神は森村千尋博士である。そして森村千尋と対峙する役を担ったのが郷登蓮也である。
郷登蓮也は森村千尋を倒さない。
彼のとった手段は暴力ではなく「交渉」である。
こんな、巨大ロボットに乗り込んでミサイルをドバドバ撃ってドリルで敵を破壊しまくるゲームで、ラスボスに対して暴力にうったえないなんてことある???? わたしはそこがとても新鮮に感じた。
ひょっとしたらそれこそが十五少年少女漂流記の見せた未来への希望なのかもしれないし、現代社会へのメッセージだったりもするかもしれない。
しかし郷登蓮也というキャラクターが面白いのは、彼がとった「交渉」という選択は、必ずしも倫理的な観点からのみ行われたものではない点である。
郷登蓮也は森村千尋のことが好きなのだ。
彼は私情入りまくりで森村先生に協力し、機兵での戦いにも積極的にかかわり、私情入りまくりでセクター5にいた三浦千尋を保護した。
そんな彼が、「千尋」に対して暴力的手段に出られるだろうか。
彼はあくまで「交渉」し、「お願い」する。
勝算はあったのだろう。彼はほかの誰よりも(たぶん和泉十郎よりも)森村千尋を理解していたのだろうから。森村千尋の和泉十郎への愛情も、人類を滅ぼしてしまったことへの悔恨や後ろめたさも、自分のクローン元である老郷登蓮也への感情も、何もかもを理解し計算に入れた上で、彼は「賭け」に出た。
勝算はあったけれど、それでも清水の舞台から飛び降りるレベルでの覚悟が必要な「賭け」ではあったのだろう。
基本的に郷登蓮也というキャラクターは「賭け」なんてしそうにないからだ。足場を固めて、確実な結果を導けるように動くキャラクターでしょ? その彼が「賭け」とか言い出したことがとても意外だったし、ずっと一緒にいた森村博士はわたし以上に驚いたはず。その驚きも意外性も、彼の計算に入っていたのではないかな。面白いキャラクターだよ、本当に。
郷登蓮也はあんなに計算ずくの理知的なキャラクターなのに、好きになるのはすでに相手がいる女性だった。目標に向かってまっすぐで、時に手段を選ばない女性だった。
そう考えると、森村千尋と東雲諒子の共通点も見えてくる。そもそもどちらもクローン元はバリバリの研究者だ。東雲諒子は割と、郷登くんの好みということになりそうだ。
東雲諒子のメンタルが安定しないとどうなるかについて、郷登くんはよくよくわかった上でお付き合いしているはず。お前ならやれる!! 人類存続のためにがんばって彼女を支えてくれ!!
郷登くんと井田先生のビジュアルがかぶりすぎでは? と初期から思っていたのだが、それってこのカップリングでの結末まで見据えてのデザインだったのかな。
沖野司
何度ループしてもヒロイン(如月)が死んじゃう! という緒方シナリオを演出していたと思ったら、自分もどのループでも死ぬヒロイン役だったという構図。よく練られた配役ですわ。
沖野に関してはもう、今度こそ比治山くんと幸せにな! 以外に言うことはない。
ただ、比治山→沖野だと思わせておいて実は絶対沖野→→→比治山でしょ? な感じがとてもいい。
鞍部玉緒
玉緒さんの子孫は生まれないのだろうか……なんで箱舟に乗せる遺伝子を奇数にしたんだ……と、エンディングでそこだけ引っかかっていた。が、性愛だけが愛情ではないよなとか(クローン元の鞍部博士の性的嗜好とかも全部不明だし)、クローン元の沖野司誕生の経緯を考えると、子孫を残すだけなら特定のパートナーと結婚しなくてもいいよなとか、そのへんのところで納得することにした。
わたしのプレイした順番だと、先にユキちゃんのシナリオで相葉さんに会ったときは顔をよく覚えておらず、三浦くんシナリオで玉緒さんの顔を認識した(あ~鞍部くんのおばあちゃんがこの人ね~)後にユキちゃんのシナリオに戻ってきて、あわわわわ玉緒さんどしたのこんなとこで!!?!!? となったのを覚えている。
あそこは結構な衝撃だった。しかもあの玉緒さんは玉緒さんじゃなかったし。ひょっとしたら沖野司よりも女装時間が長いかもしれない、和泉十郎である。
「十三機兵防衛圏」のナラティブ性
というわけで主要人物についての感想は以上!
最後にわたしが感じた「十三機兵防衛圏」の面白さの要素のひとつを付け加えておく。
それは「一本道のストーリー」を、プレイヤーごとに異なる順番で経験させることにより、結果として非常にナラティブ性の高い作品に仕上げている点である。
SNS時代において、エンタメ業界もこのナラティブを重視して作品をつくっていると思われる。プレイヤーひとりひとりに固有の体験を与え、「わたしだけの物語体験」を語りたい気持ちにさせることがマーケティング戦略になるからだ。
そのことと「一本道のストーリー」は、一見非常に相性が悪そうに思える。
(そもそもあらゆる媒体の「作品」は、その作品の受容者が語る際には「ナラティブ」になるという当然の前提はひとまずおいといて)
しかしこの作品は、プレイヤーごとにまったく異なるゲーム体験を実現させている。
わたしと同じストーリーを見たのは、わたしとまったく同じ順番で追想編をクリアし、その合間合間にまったく同じタイミングでまったく同じところまで崩壊編を進めた人しかいない。つまりほとんどいないのだ。
わたしは「わたしが体験したストーリー」を語りたくて、ここまで記事を書いた。わたしが抱いた各キャラクターへの印象は、わたしがこの順番でクリアしたからこそのものだ。同じように、いろいろな人が「その人の体験したストーリー」を語っている。
そうしたくなる魅力があるのだ。
わたしが見た物語とほかの人がたどった物語は、同じようで違うのだ。
複数の視点から自由な順番で物語をたどっていくアドベンチャーゲームは過去にもあった(わたしが遊んだ中だと428とか)。そこにバトルモードが差しはさまって、しかも好きなタイミングでモードを切り替えることができて、しかもバトルモードの方でも重要な情報が小出しにされるというゲームの設計は、とても新鮮に感じた。
このやり方でゲームを作ろうとする後続が出てくるかもしれない。
しかしこれだけの立体的なシナリオを齟齬なく組み立てるのはとんでもなく難易度が高い。簡単にまねできるものではない。
とはいえ「ひとつのストーリー」で「プレイヤーごとに固有のナラティブ」を生むというやり方のひとつが提示された以上、この先はそれを前提にした作品づくりも増えていくはず。
ゲーム業界のさらなる発展に期待したいところ!