ジャンル名を言うことがネタバレになる作品がある。どういう傾向の作品なのか知らない方が楽しめる作品はたくさんある。
この映画はそんな作品だった。
レンタルで映画を見る場合、置いてある棚の並びから作品の傾向がわかってしまう。
最近「おすすめ映画」などの記事を目にしたとき、huluで検索をかけてみて、配信されている場合はそのままマイリストに入れておき、忘れた頃に見るようにしている。そうすると、その作品についてほとんど何も前情報がないまま見ることが可能だ。この映画とそんなふうに出会うことができたのは幸運だった。もしまだこの作品を見ていない人がこの文を読んでいるのなら、即閉じた方がいい。何も知らない状態で見るのがいちばんいいからだ。
そして見終えたあとこの映画をどの棚にしまいたくなるか考えてみてほしい。
「ホラー」や「ファンタジー」に分類したい気持ちもある。この話はある種のファンタジーだし、作中で描かれる狂気や悪意は、考えようによってはホラーと言えるレベルだ。
「サスペンス」に分類することもできるだろう。提示される謎や作中に常に流れる緊張感には、確かにサスペンスらしさがある。ただサスペンスだと思って見ると、「オチが読めてしまう」とか残念な感想を言い出すことになるかもしれない。そういう映画だと思わない方がたぶん楽しい。
やっぱりこの話は「ラブストーリー」の棚の隅にそっと並べておきたい。「ラブストーリー」だと思って見始めた人が怒り狂う可能性があるとわかっていてもだ。
(huluのこの映画の下に書き込まれている怒りのコメントを読むと、やめておいた方がいい気がしてきた)
ちなみに美術の知識がある人なら、より楽しめるだろう。作中に本物の美術品が登場するだけでなく、実在の絵画に似た画面構成だと思われるシーンがはさまれるのである。↑のパッケージ画像はゴッホの「タンギー爺さん」に似ているし、ミレーの「オフィーリア」を思わせるシーンもあった。ほかにもいろいろ、探してみると楽しいに違いない。
以下、ネタバレ全開感想。
人が世界に触れるとき
ヴァージル・オールドマンというひどい名前(高齢のヴァージンである)の男がいる。
誰とも向き合わず(ほとんど目も合わせないレベル)すべての人に対して心理的隔たりを持ち、常に手袋をはめることで世界との間に物理的隔たりを持っている。
彼が向き合うのは絵の中の女性だけ。彼が直接触れるのは絵の表面だけ。極端な二次元萌えの老人と言ってしまってもいいだろう。
そんな彼が初めて手袋を取るのは、ヴィラで初めてクレアと食事をするとき。おそらくヴァージルは、あのとき初めて生身の女性に触れたのではなかろうか。ヴァージルの内心は、あの部屋にあった半裸の男女の像が表すとおりだっただろう。その裏にロバートが隠れていることが、なんとも意味深だ。
この話は、世界と隔たりを持ったまま長い間生きてきた男が、愛の力によって世界と和解することができた、そういう物語である。それまで手に入れたすべてと引きかえに、彼はこの世界に触れることができるようになったのだ。
彼が「完成」するタイミングはさまざまに解釈が可能だが、わたしは初めてあのカフェでお茶を飲むシーンだと感じた。それまで注文しただけで飲まれることのなかったお茶を、自分の素手で入れて、飲んだ。それを見つめる店主の顔が印象的だ。そしてヴァージルは店主と見つめ合って会話する。本物のクレアとも見つめ合って会話する。これが、彼がようやく閉じた世界から外に出た瞬間ではないかと思われる。
オートマタはもちろんヴァージルの「成長」を暗示するものだが、犯人たちの計画完了時点で人形は完成していない。なのでやはりあの時点でのヴァージルは「未完」ではなかろうかと思っている。自分が騙されたことを受け入れてようやく、自分の外に世界が広がっていることを、そこにお茶があり人がいることを、彼は認識できたのだ。
ラストシーンの解釈
これは本当に意見が分かれるところだと思う。
最初に見たときは、
犯行発覚→カフェで本物のクレアと話す→プラハに行く→現れない彼女に絶望→廃人化
この流れだと思った。ただ、これだと一人の人間の成長を描く物語の結末としてはいまいちだ。で、もう一度見直してみると、
犯行発覚→カフェで本物のクレアと話す→真相に絶望して廃人化→リハビリを頑張って回復→プラハで彼女を待ち続けるエンド
こういう順序ではないかと思われた。どちらが正解ということはないのだろうが、この方がわたしには納得できる。二度目に見たときに気づいたのは、プラハに向かうシーンからヴァージルが眼鏡をかけている点だ。眼鏡のあるシーンは全部リハビリ後だとすると、この順序で合っていることになる。
きっと彼女は来ない。ヴァージルもほとんどそれはわかっている。
でも、30分待たされてブチ切れていたヴァージルが、来るかどうかもわからない相手をただ一人待ち続けるということ自体、驚異的な結末と言っていい。
偽クレアもヴァージルのことを愛していたはず。「贋作の中に秘められた真実」だ。でも、愛しているからこそ二度と彼の前に現れることはできない。ヴァージルが待っているかもしれないと思っていてもだ。
ビリーの挫折と愛
この映画を見終えたあと、絶対これは賛否両論だろうと予想して感想を検索してみた。案の定怒り狂った感想もあったし、絶賛するものもあった。
その中に、ビリーの動機が理解できない、逆恨みだ、ここまでのことをするほどか、などの感想があった。これについて少し思うところを書いておきたい。ただしわたしの想像こみである。
ビリーとヴァージルは長年にわたる友人である。ビリーはヴァージルの審美眼をよく理解し、信頼していた。あそこまで至るヴァージルの才能と努力を、尊敬もしていただろう。きっと誰よりも。
その彼が、自分の絵に関しては評価してくれない。ヴァージルの評価が得られれば世間的にも評価され画家として成功できるのにとか、そういう話ではない。ビリーは、ヴァージルに評価されるような画家でありたかったのだ。
ビリーは絵が好きで、情熱もあった。その情熱を、ヴァージルによって奪われたのではないだろうか。誰に評価されようがされまいが、ヴァージルに認めてもらえるなら自分は「本物」だと思えただろうに。彼に認めてもらえないのなら、絵を描く意味などない。
想像してみてほしい。自分が今いちばんはまっていて大好きなことを、自分の尊敬する誰かに全否定されるところを。それによって自分が注いできた情熱が失われるところを。
ビリーにとって絵への情熱を失うことは、絵が評価されないことよりつらいのではないだろうか。人生の意味を失うのに等しいのではないだろうか。
わたしは、ヴァージルがしたのはそういうことだと思っている。
しかし、ビリーがヴァージルにただ復讐したいだけなら、ここまでのことをする必要はない。ビリーの筋書きはあまりにも大掛かりで、あまりにもヴァージルを熟知していて、あまりにも大きなものをヴァージルに残した。この物語はある意味で、ビリーからヴァージルへのラブレターなのではないだろうか。
愛を知らない親友へ。世界と触れ合えない親友へ。君が愛を知り、世界と和解して生きていけますように。親愛と感謝をこめて。
わたしがこの映画を「ラブストーリー」だと考える理由の半分はこれだ。誰かのことをここまで深く理解し、強く執着している理由を「愛」だと解釈せずにいられようか。いわゆる「恋愛」的な意味ではないかもしれない。だがまったく自分を振り返ることのなかったヴァージルに愛を教えたい、その感情はやはりある種の「片思い」なのだと思う。
自分の人生を台無しにした者に対する、深い愛と憎しみ。それがここまでの事件を組み立てさせた。
その一方でビリーは、計画をストップさせる機会をヴァージルに与えていた。
「愛も偽装できる」と囁くことで。ヴィラのすぐ目の前にいる本物のクレアをそのまま置いておくことで。ヴァージルは「外の世界」を見ることさえできれば、すぐに真実に至ることもできたのだ。
そして、クレアの母の絵を自ら描くことで。贋作作家も必ず自分のサインを残す。ビリーが自分の「作品」の中に残したサインはあの絵だ。ヴァージルが、それをビリーの絵だと気づいてくれればそれで計画は終わったはず。彼がビリーの筆致を覚えていれば。少なくとも記憶に残しておくくらい、彼の作品を認めていれば。
……まあ、無理だろうね。だってビリーって才能ないし。
と、ビリー自身が思っていただろう。あの計画は、悲しい希望と諦めに基づいていた。
ともかくビリーの計画はすべて「うまく」いき、絵画はビリーの手に「戻った」。もともと彼が落札したものだったのだから、彼があの絵を処分することに法的な問題はないだろう。
ビリーは自分の夢を粉々に破壊した相手の大切なものを奪い、同時に愛する友人を二次元の呪縛から解き放ち、さらに同時にあの絵画に描かれた女性たちをヴァージルから解き放った。ミッションコンプリート。
完成された美しい物語だった。
ただし、視聴者の境遇、嗜好によっては激怒不可避なシナリオだとも思うので、安易に他人に勧めるのは難しい映画であるとも思う。
空っぽの白い部屋のシーンを「オチ」と捉えるか「過程の一つ」と捉えるかが鍵だろう。