最終回を見て以来、あちこちでいろいろな人の感想を読み、わたしもまたいろいろなことを考えた。
最終回のティリオンのセリフを聴きながらこのブログのことを思い出したと言ってくださる方が何人かいて、恐縮です……。
ヒーローの皮をかぶったアンチヒーロー「ゲームオブスローンズ」8-5考察 - なぜ面白いのか
「視聴者」はいつデナーリスに殺されたか「ゲームオブスローンズ」8-5考察 - なぜ面白いのか
このへんの記事のことだと思われる。
わたしもティリオンのあのセリフを聴いたときは「本編中でそこまでわかりやすく解説するとか急に親切なドラマになったな!?」とびっくりしたのだが、そのへんのことも含めて語ってみたい。
5話を見たあとはひたすらデナーリスについて語りたくなったが、最終回を見たあとはひたすらティリオンについて語り倒したくなっている。
ネタバレ注意!!
ティリオンが語りすぎな件
牢でティリオンがジョンを説得するあのシーン、ピーター・ディンクレイジの超絶見せ場で素晴らしいシーンではあるのだが、初見時はあそこまでわかりやすく解説セリフを入れなくても……と若干当惑した。そういうのはそれこそ考察ブログとかでやることだと思っていたので。海外ドラマであそこまで説明セリフを入れてくるのは珍しい気がする。
とはいえその事情もわからなくはないので、あのシーンを許せる理由を並べてみる。
1 ジョンが何も知らないモードを通りこしてアーアー聞こえないモードだったから
作中での直接的な理由はこれかな。
ジョンはもう「何も知らない」状態ではなかった。「知っていて見なかったことにする」のを選んだ。
あの虐殺を目の当たりにしてそれをスルーってよっぽどだぞ。愛の力は目を曇らせすぎである。
その目を覚まさせるためには、ティリオンも全力でいかなければならなかっただろう。
相手がジョフリーならビンタ不可避だが、そんなことはせず言葉を尽くしたのは、ジョンへの敬意によるところなのだと思われる。
2 ティリオンがティリオンだから
そうはいっても、説得役がほかのキャラでは納得できなかったかもしれない。
ティリオンもまた、知性と言葉を武器とするキャラだ。
わたしは今も、S4でのティリオンの裁判シーンが忘れられない。この体に生まれたことが有罪だった、そのせいで自分はずっと裁かれてきた、ここにいる全員を殺すだけの毒があればと語った、あの魂のこもった演説を。
あの演説は結局彼を救わなかった。テンションマックスで迎えた決闘裁判はみんなにトラウマを植え付けて終わった。まあ最終的にティリオンは助かったわけだが、それは必ずしもあの演説のおかげではない。
一方今回の演説はあのときほどの聴衆の前ではなかったが、ただひとりの聴き手ジョンの心を動かした。その結果、自身だけでなくウェスタロスに生きる多くの人々を救った。
あのシーンをS4の裁判の続きと考えると(それは最終回後半でのティリオンの裁判にもつながる)、納得できるものがある。
言葉を尽くしてきたのにほとんど報われることのなかったティリオンが、最後の最後にその言葉によって世界を救う、そういうことなのだろう。
3 視聴者へのわかりやすい解説が必要だという判断
メタ的な理由がこれ。
個人的にはそこまで説明されなくてもわかるだろうとは思う。
デナーリスの危険性は最初から十分に描写されていたし、S7でとっくに一線を越えていた。彼女の変化が急すぎるとはまったく思わない。
とはいえ5話で噴きあがったファンの様子を見ていると、やっぱり作品の中で説明する必要もあったのかなーという気もしてくる。
これからさらにさまざまな考察が世に溢れ、評価も徐々に浸透していくと思われる。
あと10年もすれば「やっぱりあのシーンは説明しすぎ」と言われるかもしれない。
「物語の番人」ブラン
ひとつ前の記事で「物語」への賞賛と警鐘について書いたが、ティリオンの言う「物語の番人」について補足しておきたい。
やっとあのシーンを見直してきたが、ティリオンは「人々を団結させるもの」として「物語」をあげた。やはりあれは物語賛歌であると同時に物語への警鐘でもあるように思う。
人は「物語」のためなら団結し、時には自らの命すら投げ出せる。
たとえば〇〇人が自国民に害をなそうとしているという「物語」が、歴史上どれだけの人々を団結させ、その命を奪ってきたか。
「物語」を止めることは誰にもできず、「物語」は何に負けることもない。それほどに強力だ。
デナーリスもティリオンも自分の「物語」に沿って生き、そしてあの結末を迎えた。
そのへんのところは前の記事で語ったのでここではおいといて。
ブランが「物語の番人」であるとはどういう意味か。
それは結局、ブランにはあらゆる「物語」を参照できるということだろう。
ティリオンの物語も、デナーリスの物語も、ジョンの物語も、サンサのも、アリアのも、死んでいった人たちのものも。
彼は忘れないし、いつでも参照できるし、あらゆる人の視点に入ることができる。要するに、価値観の相対化ができる。
彼は貴族の視点も持つことができるし、庶民の視点も奴隷の視点も持つことができる。
デナーリスに焼き殺された人々ひとりひとりが、どんな人生を送ってきたかも語ることができる。
グレイワームとともに虐殺の高揚に溺れた者たちの視点も持つことができる。
そしてやはり彼はもう「スターク」ではない。「スターク」であればスターク、北部の利を第一に考えて統治することになるが(それがサンサであり、それ自体は統治者の基本的姿勢として間違っていない)、彼にはそんな考え方すらないのだ。
あらゆる視点に立って政治を行える統治者。現実には不可能だ。どんな立派な政治家にも自分自身の抱える唯一の「物語」がある。ブランにとって「物語」はひとつではない。それこそが、ティリオンが彼を指名した理由だろう。
もうひとつメタ的な理由も考えられる。
これもこのブログで繰り返し書いてきたが、ブランの視点とはすなわち視聴者の視点なのだ。
あの群像劇を追ってきた視聴者は、登場人物多すぎて覚えられない~と言いながらもなんだかんだでこの複雑な群像劇についてきた視聴者は、すべてのキャラクターの物語を知っている。
デナーリスの孤独も高揚も犯してきた罪も。ティリオンの痛みも葛藤も。ポッドの努力もセックスの上手さも。ホットパイの修行も。壁の向こうで起こったことも、ナロウシーの向こうで起こったことも、ドーンもハイガーデンも。
つまり製作者は、視聴者を王にした。
ここまで多くの「物語」を見てきた「あなた」、すなわち「物語の番人」は、「王」になってどんな未来を描くのか。
ひとつの悲劇の背景には多くの小さな原因の積み重ねがあること。対立する見解のそれぞれに切実な根拠があり、何が正しいかを単純に測るなど不可能なこと。「正義」「善意」は時として大きな悲劇を招くこと。などなどなどなど……
それらを学んだ「あなた」は、「あなたの物語」において何をなすのか。
それが彼らからわたしたちへの最後の "Thank you" であり、最後の問いでもあるのだろう。
公式ツイッターは、最後のエピソード放映前にこの画像をツイートした。
"To the cast, crew, and fans around the world, we bend the knee to you."
このツイートを見たときは単なる謝辞だと思った。
が、最終回を見たあとにこれを見直すと、彼らは視聴者を王にした上で、その「王」がどんな「統治」をするのか見守らせてもらうという意味にもとれる気がする。
つくづく、視聴者を試してくる番組だ。
おまけ
この動画にめちゃくちゃ笑ったのであとで見返せるように貼っておく。まだ見てない方がいたら、お口直しにでもどうぞ。