「暁月のフィナーレ」アーリーアクセスまで50日を切り、落ち着かない日々を送っているヒカセンのみなさま、こんにちは。わたしはどんな展開がこようともめちゃくちゃに泣かされるであろうと覚悟しているため、今治タオルを追加で買おうかと思っている。
(タイミングが悪くてPLLをリアルタイムで観られていないのですが)全キャラに対して「舞台からおりたとき/舞台の幕がおりたときには、今治タオルでもっふもっふにしてやる…覚悟しろ…そして冒険者さんの心に引き取って頂くがいいわ…」という念をこめてるので、多分それがバフだか呪いだかの正体…
— イシカワナツコ (@kinacchin) 2019年8月7日
(参考ツイート)
さて先日、「漆黒のヴィランズ」「暁月のフィナーレ」メインライターであるところの石川夏子さんからとあるツイートがあった。
(そんなTo the Edgeの歌詞を覚えておいていただけると、この先どこかで「おや」と思う瞬間がくるかもしれませんので、この機会によろしければ…!デスあんこ丼で復習を…!是非…!)
— イシカワナツコ (@kinacchin) 2021年10月1日
界隈に走る震撼。
これが公式からの「死の宣告」か……。
漆黒のメインクエストタイトルには Shadowbringers の歌詞が印象的な形で引用されていたが、ああいう感じのが暁月でもあるということか? あるいは誰かのセリフでもっと直接的に引用される?
いずれにしても何らかの形で To the Edge を思い起こさせるようなフレーズが入っていたら、情緒は塵となり明日は燃え殻になること確定じゃん。
まあそれこそ我が本望なので、自分の入る墓を念入りに掘るべく To the Edge の歌詞解釈に取り組むことにした。
以下、5.3までのネタバレあり。
冥き水底
To the Edge は、テンペストにあるアーモロートで流れる「冥き水底」のアレンジで、そこに Shadowbringers のフレーズが挿入される形になっている。また「冥き水底」と同様に、時計の針が刻むような音が通奏している。
初めて「冥き水底」を聴いたときの衝撃は忘れられない。
あの長く暗い海底の旅を抜けた先に広がるアーモロートの「ありえない」光景。
刻まれる秒針の音。
その後に聞こえてくる最初のピアノの和声。あの最初の音を聴いただけで、この曲の「視点人物」がこの景色に対してどんな感情を持っているのかすべてわかってしまった。
ラスボスから「ラスボスの根城で待ってるぜ!!」と言われてオラオラで駆けつけた光の戦士の足を止めるのに、それは十分だった。
懐かしく、優しい思い出。
友人、家族、恋人のいた景色。
今はもうない。
そんな感情の乗った曲。
エメトセルク自身にどれだけ語らせるよりも、あの曲ひとつで彼の抱えている感情がわかる。その場でしばらく呆然としてしまうくらい、あれはすごい見せ方だった。
最初にあの景色を見たときは、一瞬未来の世界かと思った。
それからすぐに「過去の再現」だとわかった。
あの秒針の音は、聞き手の意識を「時間」に向ける効果がある。
あの曲の「視点人物」は、あの町を再現したエメトセルクだろう。その視点で考えると、あの秒針の音は過去への志向を意味するのだろうか。つまり「時間を巻き戻せたら」という願望。
それからもちろん、「自分にはあとどれくらいの時間が残されているのか」という焦り。悠久の時を生きる彼らではあるが、永い時間を孤独に過ごすうちに擦り減っていくのは間違いない。ラハブレアは目的を見失い、エリディブスは記憶が抜け落ちていった。エメトセルクもどこまで「もとの彼」だったのかわからない。そもそも今の彼はゾディアークのテンパードなので、「もとの彼」とは基本思想から変わっているのだろうし、同時にその自覚もあっただろうと思っている。
同胞を取り戻し、善き時代に戻りたいと強く願っていたとしても、自分たちの限界もどこかで感じていたかもしれない。そんな未来への焦りもあの秒針の音に感じる。
To the Edge の歌詞の「time circles endlessly 時は終わりなく巡っていく」の部分からも、エメトセルクの焦りを感じられないだろうか(To the Edge について詳しくは後述)。
そんな「過去」と「未来」両方への志向を重ねているからこそ、あの秒針の音は実際の秒針よりもだいぶテンポが速い。
Shadowbringers のコーラスパート
Shadowbringers の歌詞は、光の戦士とエメトセルクの視点が入れ替わる構造になっていると思われる。
わたしはもともとあのコーラスパートをエメトセルク視点だと思っていた。
Home
Riding home
Dying hope
Hold onto hope
「Shadowbringers」の歌詞を公開します! | ファイナルファンタジーXIV: 公式ブログ
タイトル画面でも流れるこの部分。
懐かしい故郷へ帰りたいという望みと、その望みが消えていく不安、不安を打ち消す決意が歌われている。
ただTo the Edge でここが引用されているのを聴いて、これは必ずしもエメトセルクひとりの視点ではない気がした。
これは集合体としての古代人の意思であり、祈りではないだろうか。「彼」ではなく「彼ら」の望みと嘆きだったのではないだろうか。まさにハーデス戦での「友の祈りよ、明日への望みよ! 翼とならん!」の、「友の祈り」「明日への望み」にあたるのがこれだったのではないか。
エメトセルクやエリディブスにはずっと、あのコーラスが頭の中で響いていたのかもしれない。
特に冥界に視界がきき、あれだけ多くの同胞の仮面を背負ったハーデスには、あの祈りが寝ても覚めてもつきまとっていたのでは。それは「翼」となるだけの力も持っていただろうけれども、同時にほとんど「呪い」であるともいえる。
「帰りたい」「あきらめないで」「希望を手放さないで」という祈りがずっと聞こえているのは、いったいどれほどの状態だろうか。なりそこないの人間である我々からすれば、それだけで精神を病むのには十分そうに思える。
To the Edge
ここからが本題だ。
To the Edge もまず冒頭からあの秒針の音が聞こえてくる。そこにギターの旋律が乗っているのだが、これがあの秒針の拍感にまったく合っていない。どんどん拍子がずれていく。
(ここの奏法についてはつい先日の祖堅さんインタビューで語られていたので貼っておく)
これはエリディブスの抱えた混乱なのだと解釈している。
ハイドンの交響曲101番「時計」を持ち出すまでもなく、音楽史において時計の音とは秩序の象徴である。一定の間隔で時間を刻むことができる、つまり時間を支配しようとする、それは人間が世界を秩序ある形で把握しようとする試みの根本にある欲求だ。
それが乱される。
一定のペースで非情に刻み続ける「時間」に対して、エリディブスの感覚はもはや一定ではない。行きつ戻りつし、同じフレーズを繰り返し、綻び、崩れ、形をなさない。
あれはあそこまで行きついたエリディブスの、抜け落ちて壊れた精神状態だ。
そこに光の戦士とエメトセルクの視点が入ることによって、楽曲に秩序が取り戻され、以降ははっきりとした4/4の刻みが続いていく。
さて、To the Edge の歌詞は「幕を下ろせなくなった人」と「それを下ろしに来た人たち」をイメージして書かれたのだとか。
パッチ5.3討滅戦の歌詞を紹介します! | ファイナルファンタジーXIV: 公式ブログ
上記公式ブログにて歌詞を拝見すると、歌詞は2行ずつ書いてある部分と、7行ずつ書いてある部分があることがわかる。
わたしはこの2行ずつの部分が「幕を下ろせなくなった人」、つまりエリディブス視点、7行ずつの部分が「それを下ろしに来た人たち」、つまり光の戦士とエメトセルクの視点だと思っている。
歌詞の2行ずつの部分が延々と「喪失」について語っているのに対し、7行ずつの部分は対立を否定し、来たるべきときに備えるようなことを言っている。
さて日本語と同時進行で英語版が作られるコンテンツにおいて、単数形と複数形の違いは絶対に見落としてはいけない(Shadowbringers と漆黒のヴィランズがどちらも複数形になっている理由は以前の記事で考察している)。
「幕を下ろせなくなった人」はひとりであり、「それを下ろしに来た人たち」は複数いるのだ。わたしはこの7行ずつの部分はどちらかというとエメトセルク視点だと感じているが、そこには光の戦士成分も含まれているということだ。あるいはエメトセルクがこの曲の中で「我々 we」と言うとき、そこにはエリディブスも含めた古代人と並んで光の戦士も含まれている、とか(こっちの方がしっくりくるかな)。
いずれにしてもこの歌詞には一人称単数主語 I / my / me は一度も出てこない。すべて一人称複数主語 we / our / us である。エリディブスにとっての we は自分と古代人、つまりあの Home... のコーラスを歌っている人々で、エメトセルクにとっての we は自分と光の戦士、「ヴィランズ」であり「ゾディアークへの叛逆者」でもある「我々」だということだ。
その解釈を前提に話を進めると、
Deep inside we're nothing more
Than scions and sinners
(内面の深いところでは、我々は scions and sinners 以上のものではない)
の部分をエメトセルクが語っていることになり、四肢がバラバラになるほどエモい。
Scions and Sinners といえば、漆黒アレンジアルバムのタイトルだ。
Scions とは本来「若枝」そこから転じて「子孫、継ぐ者」という意味。FF14においては「暁の血盟 Scions of the Seventh Dawn」のことでもある。タタルさんがくれる装備もサイオンズシリーズ。
Sinners は「罪びと」のこと。
このアレンジアルバムのタイトルを見たときは、単に三人称視点から Scions = 光の戦士と暁のみなさん、Sinners = アシエンのことを言っているのだと思った。
だがこの歌詞がエメトセルク視点だとして、この we が自分+エリディブス+古代人+光の戦士まで含んでいるのだとしたら、彼は対立する双方を「過去を継ぎ未来を育むものたち」であると同時に「罪を犯した者」と捉えており、そこには違いなどないのだと言っていることになる(公式訳だと「結局のところ、お前も自分も 罪を抱いた、一端の人にすぎない」)。
エメトセルクが自分たちを「罪びと」だと思っているという仮定は、わたしにとっては衝撃だった。彼の、あるいは彼らの「罪」とは何なのか。
彼らの恐怖が世界に終末をもたらした罪?
ゾディアーク召喚に多くの同胞の命を捧げたことが罪?
終末をもたらした自分自身の恐怖と向き合うのではなく、ゾディアークという上位存在に丸投げした罪?
同胞を取り戻すために世界を滅ぼし、多くの命と未来を奪ってきた罪?
そういった諸々を、5.0の最後に魂を砕かれてテンパード化が解除されることによって、やっと認識できるようになったということかな。
さらにその後には
In the rain
Do light and darkness fade
(滴る雫の中でなら 光と闇も混ざり合うだろう)
と続く。
しかもこの rain とは、「our tears 互いの涙」のことである。
これが5.0を経た今のエメトセルクの心情ということになろうか。あるいはヒカセンからの、 Scions and Sinners 宣言への答えなのかもしれない。
そんな歌を、あのアーモロートの旋律に乗せているところがまた泣ける。
あの旋律はもしかしたら古代の音楽なのかもしれない。To the Edge の中で
As our song wends dead underwater
(我らの歌が水底で死んでいくように)
と歌われた、「我らの歌」というのがこの旋律だったのではないかな。もとがどんな曲調だったのかはわからないけど。
古代の音楽はジャズ調でとてもおしゃれだ。アナイダアカデミアの曲も、アニドラス・アナムネーシスの曲も。
もしかしたら先日のTGSで演奏されたジャズアレンジ版が、本来の曲調に近かったりするのかも。(To the Edge は25:20~)
この曲を聴きながら話に花を咲かせるアゼムとエメトセルクとヒュトロダエウスがいたのかもしれない。そこにエリディブスもいたかもしれない。
懐かしく、優しい思い出。
友人、家族、恋人のいた景色。
今はもうない。
そんな曲が水底で死んでいく。エメトセルクが散った今、あの水底のアーモロートはいつ消えてもおかしくない(まあサービス終了までは残るとして、だ)。
でもわたしたちは、そしてヒカセンは、あの場所を訪れあの曲を確かに聴いたのだ。
それを「覚えている」ことはできる。
「幕を下ろした者」として、Sinners のひとりとして(古代人から見れば、ヒカセンの方が「罪びと」である)、「終わりのとき」を前にもう一度このことを噛みしめておきたい。