最近フレンドさんが5.3をクリアし、わたしもクリアから半年たってようやくあれこれ考えられるようになってきて、また漆黒に思いを馳せて情緒をめちゃくちゃにされている。
暁月前に、今考えていることをできるだけ残しておこうと思う。
以下5.3までのネタバレ全開。
WoL戦でのエメトセルクのセリフ:「アゼム」のための記録
命のかぎり歩み 地上の星々を繋がんとした
親愛なる者の記録をここに
お前が手繰れば 運命は集うだろう
たとえ今は天地に隔たれ 心隔たれていようとも
第十四の座――その名を アゼム
以前ファンフェスで高橋広樹さんが読んでくれて全ヒカセンの涙腺を破壊したこのセリフ。ゲーム内ではボイスがないがゆえの、「あれはエメトセルク……?」と思わせておいて、WoL戦途中のカットシーンでの手の振り方から「やっぱりエメトセルクだった……!!」と泣き崩れることになる演出だったが、あれをご本人の声つきで見られることになるとは、ヒカセンは幸せ者だよ……。
という前置きはおいといて、今日はこのセリフについて考えてみる。
十四人委員会の十四番目、アゼムの権能を記した石に刻まれたこの言葉。
おそらくこれは「記録(英語版だと chronicle)」の序文にあたるものだと思われる。
この書き出しから始まる、アゼムの能力、これまでに彼がなしたこと、解決してきた問題、かつての仲間たちとの冒険。きっと膨大な量があるに違いない。全部印刷したらエンサイクロペディア・ブリタニカくらいの厚みになるのではないか。それでもいいから全部読ませてほしい。
執筆したのはもちろんエメトセルクに違いない。
離反した者の記録(本来は「引継ぎ用資料」だったはず)を残す必要はないのに、ひとりでこっそり書き残して、ずっと水底のアーモロートに保存していたことを想うと泣けてくる。
完成までどれくらいの時間がかかったのだろう。もしかしたら未完の可能性だってある。
今はもういない、14に分かたれた友がいつか手にするかもしれないと願ったのか。
あるいはもう二度と会えない友の墓標のつもりで作ったのか。
エメトセルクにとってあれがどういう意図で書かれたものだったのかはともかく、アゼムとヒカセンの側から見れば、あれはラブレターであり同時に遺言である。重い。重いよハーデス……あの家系ってみんな愛が重すぎるよね。血がつながってるよね~~!
「そのとき私はアゼムのとばっちりでこんな迷惑をこうむって……」とか延々愚痴を書き連ねて、いかんいかんと破り捨てて書きなおすエメトセルクが見える!(紙??)
そんなアゼムの記録を、あの水底のヒュトロダエウスは読んだのだろうか。
「この話はワタシも覚えてる」「これはふたりが話してくれたな」なんて思い出しながら「フフ……」って微笑んで……
はい無理。
この想像はここまで。
迷える羊飼い=光の戦士
次は本文の読み込みにいってみよう。
命のかぎり歩み 地上の星々を繋がんとした
親愛なる者の記録をここに
この冒頭の部分は、英語版だとこうなっている。
Herein I commit the chronicle of the traveler.
Shepherd to the stars in the dark.
(直訳: ここに私はかの旅人、闇に光るあの星々へと至る羊飼いの記録をつける)
羊飼い shepherd とは、キリスト教圏における救い主の比喩である。
迷える羊たちを導く姿から、迷える人々を導く救い主のことを羊飼いにたとえるようになった(『エレミヤ書』など)。
あの世界にはキリスト教はないが、しかしエメトセルクがこの「羊飼い」を、少なくとも「人々を導く者」の意味で使っていることは間違いない。アゼムが地上の星々を繋いできたのを実際に近くで見てきたのだろうし、エメトセルク自身もきっとアゼムによって導かれ、結ばれた経験があったに違いない。
あるいはもっとつっこんで、エメトセルクもアゼムのことを「救い主」のつもりで「羊飼い」と呼んだ可能性もあると思っている。それはもしかしたらエメトセルク自身の個人的な思い出によるものかもしれないし、彼の知るアゼムは「救い主」と呼ばれるに足るだけのことを成してきたのかもしれないし、まだわたしたちの知らない星の秘密に「救い主」がかかわっているのかもしれない。
5.3クリアでもらえる称号も Shepherd to the Stars である。これに気づいて即座に称号を変更してきた。
で、それをふまえてヒカセンが最初に第一世界に降り立った場所を見ると「迷える羊飼いの森 The Forest of the Lost Shepherd」。
あの日あの場所に降り立った、第一世界のことは右も左もわからない冒険者は、まさに「迷える羊飼い」だった。だけど最初から「アゼム」でもあった。そういうことだったんだな。
英語版から推測できることがもうひとつある。
エメトセルクはアゼムのことを「冒険者 adventurer」ではなく「旅人 traveler」と呼んでいる。
「トラベラー」といえば、タタルさんが漆黒入り前にくれた「トラベラーズセット」を思い出す。あのなんだか禍々しいフードで顔が見えなくなる衣装だ。どう見てもアシエン側っぽい感じのデザインで、あの……タタルさん……? と思ったものである。
ひょっとして「トラベラー」とはアゼムのことだったのか。つまりあれはアゼムの旅装束だった?
ただそうなるとタタルさん何者? という話になってしまうので、たぶんあれは開発側からのメタ的な(5.3までクリアして意味のわかる)プレゼントだったのかなと思っている。
運命は集う
お前が手繰れば 運命は集うだろう
次はここ。
この一言にこめられた親愛の重さよ。
実質的には「呼ばれたら行くよー」の意味なのだが、それを「あなたが困っているときは私だけではなく誰もが手を貸そうと集まってくれるはず。それを忘れないで」と言ってくれる、エメトセルクからアゼムへの「親愛」や「優しさ」ってそういう類いのものなんだよ!!
大切な相手であれば「困っているときは私が助ける」と言いたくなるところを「運命が集う」と言える優しさなんだよ……。
「みんなのあの人」だとエメトセルクもわかっていて、そんなあの人だからこそ大切で、あきらめられなかったんだな。
ちなみにこの部分の英語版はこう。
where you walk, my dearest friend, fate shall surely follow.
「我が最愛の友よ、お前の進む道には必ずや運命が付き従うのだ」という感じかな。
個人的には「運命が集う」の方が好みなのだが、「運命があとからついてくる」「お前が歩んだ結果として運命が生まれる」というのも主人公らしくていい。
そんなことよりその文脈に差しはさまれる my dearest friend の破壊力がすごいのだが。
これはメタ的には、開発からプレイヤーへのメッセージになっている。
「ひとりでクリアできないコンテンツにはみんなで行こう!」という意味でもあるし(ていうか「お前が手繰れは運命は集うだろう」って要するにコンテンツファインダーのことよね)、「現実世界で困難に見舞われてもきっと手を貸してくれる人がいるはず」という意味でもある。
そう考えると、my dearest friend にもまた別の味わいが生まれないだろうか。
心隔たれていようとも
たとえ今は天地に隔たれ 心隔たれていようとも
最後にここ。
まず「今」とはいつの時点での「今」なのか。
少なくともアゼムが離反し、その魂が世界とともに14に分かれてしまった後。
そのときはエメトセルクが生き残り、アゼムが散ってしまっている状態だった。
しかしヒカセンがあの石を手にしたときはその逆。エメトセルクが散り、アゼムの魂が生き残っている。
「天地に隔たれ」というのはふたりが死に別れたという意味だと解釈しているが、それが執筆当時と逆になったのは、皮肉というべきか、もしかしたらそれもエメトセルクの想定内だったのか。アゼムの魂を持つ者がこれを読むときには、自分はもういないだろう的な。
「心隔たれ」の方は、ふたりが道を違えたことを表していると思われる。
しかし「たとえそうであったとしても」「喚ばれたら助けに行く」と言っているわけだ、この執筆者は。
どんなに離れていても、相容れない考えを持っていたとしても、それでも「お前が手繰れば=あいつが自分を喚んでくれさえすれば」助けに行くという決意表明である。「今」がいつのことなのかはわからないが、その時点から彼はずっとそう決めていたのだと思う。だって彼らは「時に違う考えを持っても、同じだけ認め合えた」人たちだから。
5.3クリア当時のわたしの感想を引用しよう。
「アゼム」が「アゼム」であるならば、ああいうふうになってしまったエリディブスを終わらせて「アゼム」に希望を託そうとしたのがエメトセルクの最後の決断だったわけだ。
「アゼム」が「アゼム」である、すなわち「世界の今を知り、解決すべき問題があれば拾い集める」「旅をして多くの人と出会う」「解決できる仲間を喚び寄せて自分で解決する」ような人である、ということ。
そんな「アゼム」は、WoL戦で「願いをこめてクリスタルを掲げた」。それが具体的にはどんな願いだったのかは語られない。でも結果を見れば、そしてアゼムのクリスタルの性能を文字通り受け取れば、あそこでククルカくんはエメトセルクのことを「解決できる仲間」として自ら喚んだのだ。それはエメトセルクの希望に応えることにもなった。
そしてエメトセルクは、「アゼム」が今も「アゼム」であることを受け入れてくれた。
「ファイナルファンタジー」へのアンチテーゼにしてファイナルなファンタジー「FF14」プレイ日記・27 - なぜ面白いのか
エメトセルクは最初からそうだった。
問われれば答える。求められれば助ける。ヒカセンがそう「望む」ことを待っていたようだった。「お前が手繰れば」という条件こそが大事だったわけだ。
そしてこの部分はヒカセン各位によって見解が分かれるところかもしれないが、我がヒカセンククルカくんにとっては、エメトセルクは「あの事態を解決できる唯一の仲間」であり、その前に喚んだ稀なるつわものたちと同じように(少なくともこの件に関しては)信頼できる相手だったはず。
で、ここまで書いてきて気が付いた。
エメトセルクのあの行為、アゼムの魂を持つ者の命を繋ぎとめ、エリディブスを退けることになるあれは、ゾディアークに対する重大な叛逆ではなかったか。
エメトセルクの魂はゾディアークに染められ、テンパードにされていたはず。そもそもいったいどの程度彼の思考と行動がゾディアークによって縛られていたのかについては、もっと議論されていい部分である。
5.0でのエメトセルク消滅時にテンパード化が解けたのか、あるいは強靭な魂でゾディアークに逆らったのか。
いずれにしても、ここにも「漆黒の叛逆者」がいたってことじゃん……。うわあ、今気づいたわ……。
もしかすると「アゼムの石を残す」こともゾディアークに逆らうことだったかもしれない。
ゾディアーク復活を前提とした筋書きなら、「善き人々の世界を取り戻してアゼムの魂とももとの形で再会したい」となるはず。もちろんこの願いも持ち合わせていたと思うのだが、それだけならアゼムの石は不要なのだ。
「善き人々の世界を取り戻してアゼムの魂とももとの形で再会したい」という願いすら自分のものなのかゾディアークの影響なのかわからなくなってしまうような状態で、ただひとりあそこまで正気を保っていた頑強な魂。
だからこそ、アゼムの石を残せたのか。あるいはアゼムの記録を記し続けることによって正気を保てたのか。
その部分が作中で語られることは今後もないと思うけれど、アゼムの魂がこれからも「旅人」であり続け、冒険を続けることを認めてくれたエメトセルクも、その魂が何らかの形で救われてほしいと願うばかりである。