この記事には「暁月のフィナーレ」レベル88クエストまでのネタバレが含まれます。
ついに採掘士がレベル90になった! 最初のカンストジョブである。
リーヴと納品と魔法大学クエストでかなりスムーズにレベリングできた。結局漆黒の白貨装備のままで90になってしまった。
考えてみるとレベル80キャップ時代に最初にカンストしたのは漁師であった(オーシャンフィッシング中にカンスト)。
白魔道士ももうレベル89だし、そろそろカンストが見えてきた。ナイトも現在88。タンクは現在どんな時間でも即シャキなので、レベリングは楽々だ(ポンコツタンクである点を除けば)。
物語もいよいよ大詰めっぽいのだが、漆黒のときのことを考えるとまださらに新エリアがあるかもしれないし、話もまだまだ二転三転する可能性もある。
わたしに言えることは、今までも毎晩泣きながらプレイしてきたが、今後も毎晩泣くだろうということくらいだ。
以下、レベル88クエストまでのネタバレ注意!!
ゼノスの理屈
今までわたしはゼノスというキャラにそこまで強い魅力を感じてこなかった。
わたしがバトルコンテンツにそこまで執着がないから、というのが理由のひとつかもしれない。「新たなバトルコンテンツが楽しみで武者震い」するタイプのヒカセンではなく、どちらかというと「次の戦闘をあまり迷惑かけずに乗り切れるかなあ」と心配するタイプである。
そのため、こちらも戦闘狂であることが前提のような彼の発言には常に「???」だったし、たぶんわたしよりもゾディアークと戦った方が歯ごたえがあるんじゃないかと思ったりしていた。
それが、ここに来てようやくゼノスの語る言葉が理解できた。
彼はガレマール帝国の抱える欺瞞や矛盾をちゃんとわかっていた。
エーテルの扱いが苦手なガレアン人が他民族による侵略から身を守るには強くならなければならないとか、エーテルを食らう蛮神を信仰する蛮族から星を守らなければならないとか、そういう理屈を並べながら、やっていることは暴虐である。戦争を繰り返し、歯向かう者は殺し、圧政を敷く。
果たして終末の災厄で死んだ者と、帝国による領土拡大のための戦争の中で死んだ者と、どっちが多い? 前者が許せないとしたら、なぜ後者は許せるのか?
彼はそういった欺瞞をわかっていて(全部アシエンの計略の上だったということがわかったのは「死後」だったとしても)、その上で「生前」は自分の立場に求められる役割に付き合っていたわけだ。
それはたぶん、ほかにやりたいことがなかったから。
この世界は退屈で、どこにいて何をしていようと大した違いなどなかっただろうから。
城に引っ込んでいるよりは、退屈な狩りの方が多少はマシだったくらいの感覚で戦争に出向いていたのではないか。
「人を殺すための大義名分」が必要な者、「人を殺すための大義名分」を疑いなく信じ、それこそが自分の信念だと思い込んでしまえる者は、所詮狩られる側の愚かな獣である――ゼノスはそんなふうに考えていたわけだ。
そう考えれば、戦争における「敵」も「味方」も等しく愚かな獣である。
たしかにつまらなかっただろうし、生きる意味なんて感じられなかっただろうし、どこにいて何をしていようと大した違いなどなかったわけだ。
わたしにはやはりかつてのゼノスのメンタリティは、太古に滅んだ種々の文明に生きた人々に近いように思える。
しかしゼノスは文字通り「人生を懸けてやりたいこと」を見つけてしまった。やっと芽生えた自我である。
ゼノスには大義名分は必要ない。「自分がそうしたい」から「そうする」のであって、ほかの理由は必要ない。
そして「やりたいことをやるために蘇った」彼は、もはややりたいこと以外に時間を割く気がなかった。
自我を獲得した彼は、当然の流れとして「遅れてやってきた反抗期」を迎える。自分には家業よりも大事なことがある。家を継ぐより自分の夢を追いたいんだ!!
……と表現すると、割と普通の青年っぽいんだけどな……。
「親殺し」は英雄譚にはつきものだからまあいいとして(いいか?)、国がひとつ滅んでるからね。
いったいどこに落としどころを用意するのか。そもそも暁月でゼノスとの決着まで終わりが用意されているのか。
ゼノスをめぐる話の展開も気になるのだが、今回いちばん大事だったのはやっぱりこれだろう。
生きる意味なんか自分で決めろや、という強いメッセージ。
それはまさにヘルメスの問いへの答えである。
他人の答えを自分の答えにしてどうするのか。
「人を殺すための大義名分」が必要な者、「人を殺すための大義名分」を疑いなく信じ、それこそが自分の信念だと思い込んでしまえる者とは、すなわち「自分が生きるための大義名分」が必要な者、「自分が生きるための大義名分」を疑いなく信じ、それこそが自分の信念だと思い込んでしまえる者である。
ゼノスの主張はそういうことだな。
ううん、「ヘルメスの問いへの答え」としてはそれは十分なものになり得るとわたしも思う。
よその星が滅んだからって、よその星の人たちが絶望してたからって、自分まで絶望する必要はない。よそはよそ! うちはうちなんで! でいいとも思う。
ただ、人はみんながみんなゼノスみたいに強いわけではない。
というかゼノスを全肯定してしまうと、自分ひとりで考えてたどり着いた答えが反社会的なものだった場合に止めるすべがない。
結局多くの人は、生きる意味を求めるならば先人の知恵に耳を傾けることになるのではないだろうか。身の回りの狭い範囲の先人だけではない。書を紐解き、歴史に学び、過去の偉大な賢人たちの声を聞き、過去の大きな過ちとその結果を知る。可能であれば多くの土地を自分で歩き、見分を広げるのもいい。
そのすべての知を自分の中で比較検討し、自分の人生へとフィードバックする。普通の人にとって、自分の生に意味を、答えを出す過程というのほ大体こんな感じになるはずだ(まあしかしこれができるなら「普通の人」どころか相当の賢人だとも思う)。
で、実際にこれをやってきたのがアルフィノであり、光の戦士なのではないかな。
「答えを出すのは己自身だ」と言われたククルカくんは何かに気づいたような顔をしていた(このページのサムネ画像である)。
ゼノスの言葉はたしかにヒントになった。
でもゼノスの答えを自分の答えにしないでほしい気持ちもある。
今の彼らなら心配しなくても大丈夫かな。
このへんは、この先のシナリオに期待ということで。
なりたいものになっていく
シャーレアンの議会で皆を説得したアルフィノ、そしてエクスアダマントを世界各地から集めるよう要請を出すアルフィノを見ていて、涙が止まらなかった。
彼はやっと、自分がなりたかった自分になりつつある。
世界の人々をつなぎ、協力しあえる関係を構築すること。それを実現するだけの力を備えた自分になること。
だいぶ遠回りしたけれど、たぶんこの道に近道なんてない。
今まで拾い集めた薪の一本一本、救った命のひとつひとつ、かけられた言葉、届かず終わった言葉、狭いシャワールームも泳ぎの特訓も、何ひとつ無駄じゃなかった。
今まで出会ってきたたくさんの人たちが、「なりたかったもの」だけどいろいろな理由から「なれなかったもの」に、今ここにきて「なっていく」。
ナナモ様はロロリトのような商人も扱えるような女王に。
リセは姉やパパリモに誇れるようなリーダーに。
アルトアレールとエマネランはオルシュファンに誇れるようなイイ騎士に。
考えてみると、暁のみんなだってそれぞれ、なりたいけれどなれなかったものになっている。
かつて旅の同行者を失い、ガ・ブを救えなかったアリゼーはすっかりLB3-happyとなり、テンパード化の治療法まで確立した。
エスティニアンは復讐のために生きるのをやめ、竜とともに人々を守る槍を振るうようになった。
冒険者の背中を見送るだけだったグ・ラハは3ロールを極めるオールラウンダーとなり、民を導き守るリーダーシップまで身につけた。
ミンフィリアを見守るだけで結局失ってしまったサンクレッドは、今度こそ大切なものを自分の手で守る力を手に入れた。タンクになったというだけではなく、精神的にもずっと強くなった。
ウリエンジェの今
そして最後にウリエンジェがね……。
もうね、スクショ眺めてるだけで泣くんだけど!?
彼がここでたどりついた「自分」って、「学んできたことを世界に還元できる自分」であり、「ムーンブリダが望んでくれた自分」であり、おそらくは「ムーンブリダ自身がなりたかった自分」でもあるんだよ。
ムーンブリダを亡くした当初は「自分が彼女のためにしてあげられなかったこと」を数えては泣き暮らしていたのだろう。それが次第に「彼女が自分のためにしてくれたこと」を思い出すようになり、「彼女のために今からでもできることは何か」「彼女が自分のためにしてくれたことを無駄にしないためには何ができるか」を考えるようになり、ようやく「彼女は何を望んでいたのか」を考えられるようになった。
「今話している誰かと、また話せたらいいな」
これだよね。
幸せな明日が続いていくこと。そして「話す」ということ、コミュニケーションへの執着。たくさん学んで考えても、学問は自己完結しているだけではだめ。世界に還元し、伝えていかなくてはならない。
そういうことに気づいたがゆえの、今のウリエンジェなのではないかな。
リヴィングウェイがウリエンジェのことをちょっと気にしているのが面白い。
種の保存を第一に考えていた彼女が、同じ種の生命の中にある個体差に気づき、特定の個体に興味を示すことの意味よ。
レポリットたちの考え方は、最初に会ったときは古代人に近いと思った。
外見的差異がほとんどなく、種の個体差などに目を向けず、月という環境を良くしていくことにだけ関心を向ける。それはひたすら星を良くすることに生きる意味を見出した古代人とほとんど変わりない。
だが彼らは当初思った以上に柔軟だった。学び、吸収し、変化を受け入れる。出会ったものひとつひとつに驚き、心動かされ、思い込みを修正する。
それがたぶん、ヴェーネスの目指した生命のあり方だったんじゃないかな。
アルフィノと古代人
薪集め宣言をするアルフィノを見ていてわたしが思ったのは、かつてのアルフィノの姿勢もかなり古代人に近かったのだということ。
「エオルゼアの救済」を一方的に振りかざしたかつての彼は、「星を良くする」ことを至上命題として疑わなかった古代人とどう違うのか。
その価値観が「絶対的に正しい」ものだと信じて、「良いことをしている」と心から信じて行うことの暴力性。そこから生まれる歪み。わたしたちはこれまでそういうものをたくさん見てきた。
そういう意味では、かつてのアルフィノもかつてのユリスも古代人と変わらない。
「争いのない平和な世界」では、必ず誰かが不満を抑え込まれている。それは本当に理想郷なのか?
ここまでの旅路で、アルフィノはその問いに答えを返せるようになっているだろう。
そして逆に、古代人たちに対しても思うのだ。
彼らには苦境に立ち向かったり、試練を乗り越えたりする機会はあったのだろうか。
エメトセルクやヒュトロダエウスや、アゼムには? ヴェーネスには?(なんか話を聞いていると「危機に乗り込んできて解決する」アゼムやヴェーネスはそういう経験をしていなくもないように思えるが)
上で書いた暁のみんなの成長過程のようなことが、試練を乗り越えて「なりたい自分」になっていくような過程が、彼らにはなかったんだろうか。
自分の無力を感じたり、過去を悔いたりといった経験は、あの終末の日までなかったんだろうか。
だとしたら、うん、まあ、滅ぶよな……。
でも今の彼らは、少なくともエメトセルクは、自分の無力を感じたことはあるはずだ。
過去は悔いまくっていると思う。
試練とかめっちゃいっぱいあったはずだ。
それは何らかの形で「成長」となってくれないだろうか。ひょっとしたらそれが「託す」という決断だったのだろうか。
この星の命は現生人類が継いでいくとしても、彼らの物語も何かの形で結実を見てほしいと願わずにはいられない。