ここ数日、一部のエイダン・ギレンファンの間で「ザ・ノート」というショートフィルムが話題である。
2013年に公開されたアイルランド映画で、全部で20分余りの短い作品だ。
セリフは少なく、美しい音楽と映像と、ギレンさんの繊細な表情の変化で彩られており、英語がわからなくても話の筋は大体追えるようになっている。
先日この作品が全編youtubeにアップされた。どうやら製作者が公開したらしいということで、ここにも貼ってみる。
子供の頃にカトリックの学校で神父から性的虐待を受けていた主人公ラースは、そのトラウマから酒に溺れ、妻も子も失った。これは、そんなどん底から始まる再生の物語である。重苦しいテーマではあるが、一見の価値ある美しい作品だ。ぜひどうぞ。
この作品、俺たちの見たいエイダン・ギレン要素が詰まりまくっており(「ゲームオブスローンズ」だけで彼を知っている人にはびっくりかもしれない)、ただ眺めているだけでも生命力を吸い取られかねない魅力を持つのだが、いろいろ深読みのしがいもあったりする。
というわけで、以下、こういう解釈もアリかな? という話。
ネタバレありなので、まずは20分ほど本編をご覧になってからどうぞ。
作品における文法
前提として、この作品において画面の右側は「未来」「希望」を表し、左側は「過去」「絶望」を表す。洋書を読み進める際の視線の送り方と一致させているようだ。
たとえばラースが通っていた学校の窓辺に座るシーンでは、学校の壁は彼の左側に位置する。最後に彼が向かう施設の扉は右側。
これを踏まえると、光が差し込むシーンでは常に光源が右側にある(ベッドで寝ているラースに降りそそぐ朝日や、ラース少年が廊下で立ち止まって見る方向など)とか、画面左側にある聖母子像(現在の聖母子像はラースが左側に振り返ったときに見える)は失った妻と子のイメージなのだろうとか、配置されたアレコレを深読みできる。
最後にラースが「ノート」を置いていくとき、あの窓辺は初めて画面の右側に映る。だから彼は「ノート」を捨てたのではなく、希望を持って手放したのだとわたしは解釈した。
ラース少年に何があったか
で、あの「ノート」って結局何だったの? というところは、作品を見た誰もが考えたくなるところではあると思うが、その前に少年ラースの身に起こっていたことを整理してみたい。はっきりとは示されていないので、描かれているものからの推測になる。
まず彼を虐待していた神父は、扉の向こうにいるだけで直接画面には現れない。この話には徹底して父性が排除されている。抑圧者としての父性すら登場しないのだ。
ラースのクラスの教師は、「ノート」を渡しながらラースがこれから何をされるか知っている。クラスメイトの大半(全員?)は何も知らない。
教師は性的虐待の事実を知りながら、それを隠蔽しなければならない立場にある。だから神父からの呼び出しを、白紙の「伝言」を手渡すことによって、ラースだけにわかるように伝えていた。
別の生徒が「僕が行きましょう」と立ち上がったが、あの声の調子から察するにあの子は何も知らずに言っている。しかしもしもラースが断れば、今度はあの子が犠牲になるのだろう。
だからラースは、廊下で立ち止まって光のある方も見つめるのだが(=逃げようと思えば逃げだせるということ)、結局光のない方を選ぶ(=自ら犠牲になる道を選ぶ)。間接的にではあるが、ラースはクラスメイトたちを守っていたのだ。
一方、彼を守ってくれるはずの大人たち、そして救いを説くはずの宗教は、彼を守りもしなければ救いもしなかった。
教室の扉を出たところで中を振り返ったときのラースの表情は、自分が守ったものを確かめようとしているようにも見えるし、本来守ってくれるはずの大人が「やっぱり行かなくていい」と言ってくれるのではないかと待っているようにも見える。その希望が完全な拒絶(閉ざされる扉)で終わるからこの大人はクソである。聖職者の風上にも置けないから、虐待野郎とともにすみやかに地獄の業火に焼かれてほしい。
また重い足取りで廊下を歩く彼が目にする聖母子像も、やはり彼の救いにはならない。もはやあの像は非救済の象徴である。
ただし現在のラースは、聖母子像の向こう側に光を感じている。逆光で聖母子像の顔が真っ黒なのは、今の彼にとって聖母子(=自分の妻と子)は、手は届かないけれど光を感じる存在にはなっているということだろうか。
「ノート」とは何か
わたしは今のところ「ノート」に二つの意味を見ている。
一つは、過去のラースが守ったものと彼の自尊心の象徴。あの部屋で起こったことによって傷つけられた(と彼が思い込んでいる)彼の善性(はっきり純潔と言ってもいい)と自尊心が、彼の内部から切り離されて「ノート」の形でそばに置かれた。
「ノート」という外付けパーツが存在することによって、彼はどうにかこの世に生を繋ぎとめてきた。ラースにとって「ノート」は命綱だった。
もう一つは、大人になった自分自身があの神父たちのようにならないための戒め、あるいは楔。
現在のあの教室で、彼は鏡に自分の姿を見た。それは過去の自分を想起させるためのスイッチであると同時に、「あの教室にいる大人」をも意識させる。
実際の彼の性的志向はヘテロなのかもしれないが(子供がいるので)、作中で彼が見せるボディタッチは男性相手のみである(息子も含む)。
実際の性的志向はともかく、ラースは自分があの神父たちのようになる可能性を恐れていることは間違いないと思われる。息子のおしめを変えようとして脚を開かせたときの反応がそれだ。虐待される自分のビジョンと同時に、自分が虐待する方に回る可能性が頭に浮かんでしまったのではないか(あの悪意のあるアングルときたら……)。
ではそれを手放す意味とは?
外付けパーツが不要になったから、ということだと思われる。
つまり一度自分から切り離して外側に置いたものを、再度内側に取り込む気になった。
もしくは、もともとそれらは自分の内側から失われてなどいなかった、ずっと自分の内に存在していたのだということに気づいた。
具体的には、
1. 過去の自分がなぜ息子に向き合えなかったのかを自覚した(ここはちょっと解釈が分かれるところだと思うのだが、それまでラースは自身への不信感と息子に対して抱いた恐怖をはっきり自覚できていなかったのではないかと思ったりする。あの回想シーンでやっと自覚できたのかもしれない)こと
2. 息子との会話を自分に許したこと
3. 息子と接触した自分が無節操な行動に出たりはしなかったこと
4. 息子の反応がとても健全な意味で不審者を見る目だったこと(虐待されたりしていたら、もっと怖がったり違う反応になりそうだとラースは経験上わかる)
などから、自身の善性をもう一度信じてみる気になったのではないだろうか。
「自分は救われることが許される」と思えてようやく、彼は差し伸べられる手を取る気になったのだ。最後に息子に会いに行くとき、そして施設に向かうとき、もうラースは世界を拒絶するイヤホンはつけていない。
犠牲の羊
せっかくキリスト教的モティーフの多用された作品なので、もう少し宗教的な部分について触れてみたい。
あの学校において、ラースは明らかに「犠牲の羊」だった。
古来より宗教的犠牲には二種類あって、一つは血を伴うもの(動物や人間を神への供物として捧げる場合)、もう一つは血を伴わないもの(野菜や果物を供物とする場合)だ。ここで描かれているのは前者である。
ただし作中で流血は直接描写されることはない。おそらく「酒」が血のかわり。本来はワインを使いたいところだが、社会的階層から考えると不自然だからこうなった。
酒を浴び続けるラースは、血を流し続ける神への供物である(血を流すのをやめたとき、彼は自分に与えられた虐待を告発し、犠牲であることをやめられるのではないだろうか)。
ほかの生徒と教師たちが明日も平穏に生きられるために、ラースは「神」に差し出された。これは原始宗教における「犠牲」のあり方に近い。
というふうに最初は理解したのだが、ラースがほかのクラスメイトを守るために自らあの部屋に向かうことを選んだ側面があるとしたら、「犠牲の羊」は人間の罪をかぶって自ら十字架にかけられたキリストそのものである。
十字架の下に座るラース少年の図は、神への供物としての少年の意味を持ちつつ、彼自身が父と子と精霊の「子」にあたるペルソナをも意味しそうだ。そもそもキリストの死そのものが新約聖書においては「いけにえの死」として示されているわけで、要するにラースくんは尊いですね(雑)。
推薦図書
さて、ここで推薦すること自体が重大なネタバレなのだが、この作品を見ていると萩尾望都の『トーマの心臓』を思い出す。トーマ不在ifの30年後を見ているような…。
愛とは何か、救いとは何かというテーマを真向から描いた傑作中の傑作なので、まだ読まれていない方はぜひ。
『残酷な神が支配する』も思い出したが、あれはわたしも読みながらきつすぎて何度か挫折しそうになったため(しかも結構長い)、心を強く持てるときにどうぞ。内包するテーマは "The Note" とも『トーマの心臓』とも共通するものがある。
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